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『例祭に示された神の救いの計画』マルコ9:9~13 [礼拝メッセージ]

1月21日礼拝メッセージ要約(野口牧師先生)より

Ⅰ.分からなかった弟子たち
『彼らはこの言葉を胸に納め、死人の中からよみがえると言われたのはどう言う意味か、互いに論じ合った。』(マルコ9:10)
 変貌山から下りながら弟子たちは、イエス様が語られた「死人の中からよみがえる時まで」と言われたことばの意味が分りませんでした。メシヤ像について混乱していた弟子たちは、「なぜ、律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っているのですか。」と尋ねます。イエス様は逆に「どうして、人の子について、多くの苦しみを受け、蔑まれると書いてあるのですか。」と尋ねています。弟子たちはエリヤがすでに来ていることや、主の救いの計画について理解していませんでした。これが混乱の原因となっていました。

Ⅱ.例祭に示された神の救いの計画
 レビ記23章には主の7つの例祭について記されています。この例祭の中に神の救いの計画が示されています。今回は「過越しの祭り」と「初穂の祭り」から学びます。過越しの祭りの歴史的意味は、エジプトでの奴隷状態から解放され、イスラエル民族として独立したことを記念する祭りであり、霊的意味は、イエス様が過越しの犠牲の子羊となられたことによって、私たちを罪の奴隷から解放して下さったという事です。「初穂の祭り」は収穫の初穂を捧げる祭りです。これは安息日の翌日に行われ、復活の予告を表しています。この様に、例祭の中に「十字架」と「復活」が予告、予表されているのです。イエス様は、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。キリストにある私たちも同じように、空中再臨・携挙の時によみがえります。

Ⅲ.分った弟子たちは
 ペンテコステ、聖霊降臨の時に弟子たちは神の救いの計画を理解しました。弟子たちは与えらえた賜物に応じて主にお仕えしました。以前紹介した10の能力を表示します。①言語的能力②数学的能力③論理的能力④視覚空間的能力⑤音楽的能力⑥身体的能力⑦手先の器用さ⑧対人的能力⑨内面的能力⑩博物学的能力です。お一人おひとり、自分の能力と賜物を知り、イエス様と教会のために、それぞれの牧場で活用して頂きたいと思います。

『栄光の姿に変わる』マルコ9:1~8 [礼拝メッセージ]

1月14日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 イエス様は弟子の中からペテロ・ヤコブ・ヨハネの3人を選んでヘルモン山に登り、その御姿の変貌をお見せになった。白く光るその御姿は、非常に貴重なもので、真の神の御姿であった。自分達だけにその御姿を見せて下さった事で3人は特別感を感じ、イエス様への信仰的距離が縮まり真の神であると確信した。これは、イエス様の自己開示とも言える。自己開示とは、自分に関するプライベートな情報を明らかにする事で、適切な人間関係を築く上で欠かせない。親の在り方について書かれた著書にも、「親が子どもに対して自身の経験(失敗も成功も)や生い立ちなどを話し自己開示すると、子どもは正直に話してくれた親に対して愛や尊敬を抱く」と書かれている。米大統領だったリンカーンも、貧しい家庭で生まれ育った事を民衆に話し親近感を持たれた。
 弟子達に真の御姿をお見せになった時に、律法のモーセと預言者のエリヤがイエス様の「最後」について話し合っていたが、その3人の姿を見て、神の国の始まりを感じたペテロが仮庵を建てる「仮庵の祭り」を開催を提案した。なぜなら、「仮庵の祭り」とは、メシア王国が始まりを意味するからである。しかし、イエス様の十字架なくして再臨による完全な王国の完成はないので、この時の仮庵の祭りはあり得ない。死からの復活をしたモーセ、死なずに復活したエリヤ、その姿から死んでも復活の命が与えられる事をイエス様と共に表しており、「携挙」を連想することができる。
 旧約の時代、神様は律法や預言者を通して語られたが、この時はイエス様の公生涯やイエス様を通して語られた。今は、みことばを通してご聖霊が導いて下さる。この世の罪や影響を受けている私達の感覚や思考は不完全であり、みことばによって吟味される必要がある。日々のディボーションや牧場での交わりなどで歩みを軌道修正し、礼拝でイエス様を主としてお迎えし従っていく時、イエス様は私達と共にいてくださる。
 ペテロ、ヨハネ、ヤコブは、イエス様に躓き、訳が分からなくなってイエス様が救い主なのか疑い始めていたが、その栄光の御姿を見せて下さった事で、彼らの信仰が奮い立ち「自分達ではわからくてもイエス様についていけばいい」という確信が与えられた。この様に、私達も理解を超えたことがあっても、「主に従っていくとき主の栄光を見せて頂くことができる」と期待してイエス様に従っていきたい。

『ライフワークと聖書の労働観』創世記 1:28、2:15 [礼拝メッセージ]

1月7日、礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 成人の日に因んで労働について考えてみたい。2023年の10大ニュースの第一位はWBC侍ジャパン優勝であった。 第六位は闇バイト指示役ルフィー逮捕とある。そもそも、なぜ闇バイトが流行るのか? 
 聖書は初めに神が天と地を創造され、神はその世界の管理を人に委ねられたと教えている。労働は秩序をもって成長・発展を促す、本来、すばらしい特権・恵みであった。しかし、アダムが神に反逆し神から離れた結果、労働は生きるための手段に堕し、苦痛となり、働かずに楽ができればいいということになり、これが闇バイトのような犯罪に加担してでも簡単に高額を稼ぎたい動機となる。闇バイトはSNSで実行役が募集され、顔写真や免許証を撮られ逮捕されるまで奴隷状態となり、使い捨てられる。 クリスチャンはまずこれには引っかからないと思うが、ひっかかりやすいのはマルチ商法(ネットワークビジネス)ではないかと思う。初めに何十万かを払って会員になり、何人か紹介するだけですごく儲かると言われるが謳い文句は法律違反だらけである。 
 労働が空しくなったのは人の罪のためで、神との関係が回復したならば、労働は世界管理の業に参与する本来の役割を果たす。人は仕事を通して人格形成される。ヨセフもヤコブも理不尽なことも経験しながら、仕事をすることによって練られ成長した。正しい労働に就いてほしい。既に仕事についている人は、やり方を工夫したり、仕事関係者と良い関係を築いたり、仕事の満足感を高めてほしい。リタイヤされた方は知識や経験を他の人のために活かしてほしい。幸福度は自分のためよりも、他者のために何かした時の方が高い。
 では、どうやってライフワークを見つけるのか?言語的、数学的、論理的、視覚空間的、音楽的、身体的、手先の器用さ、対人的、内面的、博物学的、これらの10の能力の内、好き・得意を混ぜて考えると適職がわかるといわれる。
 後ろ向きな人、物事のマイナス面に注目するのは良くないイメージがあるが、それは物事の問題点を見、先手を打ちリスクを解消することができる欠かせない能力である。前向きな人が絶対的に優れているのではない。大切なのは、いろいろな性格の人がいて、各人の得意な分野を活用してあげること。 それは組織にとってもプラスになるという。神様は私達のありのままの性格・能力を受け入れ、愛してくださっている。安心して主のわざに励んでいきたい。

『シメオン(黒田官兵衛)の喜び』ルカ2:25~32 [礼拝メッセージ]

12月24日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 シメオンの洗礼名を貰ったキリシタン大名の黒田官兵衛が信仰を持ったのは、キリシタン大名高山右近と出会い、その導きによって信仰告白したのであった。官兵衛の信仰を決定的にしたのは、一年にも及ぶ有岡城幽閉を経験したことであった。城主荒木村重はもう一度信長側につくように説得に来た官兵衛を牢獄に閉じ込めた。いつまでも帰ってこない官兵衛を信長は裏切りととり、官兵衛の息子長政を殺せと命じた。官兵衛は神を信じているのに、なぜこんなことになるのかと、不安と不信仰の思いに苛まれた。司馬遼太郎の播磨灘物語には、苦しみの中牢獄の格子越しに陽ざしを受けて笑うように咲いている藤の花に、官兵衛は生きる力を貰ったと書いてある。後に秀吉に軍師として取り立てられた。しかも主の山に備えあり。息子長政は生きていた。官兵衛はこの恵みを与えてくださった神様に生涯お仕えしようと思った。有岡城幽閉事件は官兵衛の主君姫路藩主小寺政職の裏切りによる結果であったが、帰ってきた官兵衛は小寺を殺すことなく赦したのであった。戦国時代にはありえないことであった。以後、人は殺すよりも使え。即ち敵を赦し用いることが、彼の基本的な生き方となった。バテレン追放令を出した秀吉の圧力を受けながらも信仰を守り通した。
 今日の箇所のシメオンはイエス様と出会って人生の未練は吹き飛んだ。私たちも人生を台無しにしてしまうような罪の記憶を、イエス様の十字架で全部消していただいた。のちは神様の言葉に生かされて生きる私たちの人生を神様は喜んで、よくやった、良い忠実なしもべだと迎え入れてくださる。これは、本当にいい人生だったという終わり方ではないだろうか。シメオンも黒田官兵衛も共にそのような生涯だった。人生の終わりだけでなく一年の歩みに悔いの残ることがあれば、責任を持ってくださるイエス様にお委ねする。今すべきことは、イエス様にあってこの一年の守りを感謝すること。与えられた豊かな恵みを数えながら、イエス様に感謝する。そうして与えられたこの一年を安らかに終えたいと思う。




『平和の架け橋』ピリピ2:6~8 [礼拝メッセージ]

12月17日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 今日、クリスマス礼拝Ⅲが行われた。その中で幼児園の子ども達が元気いっぱい可愛い賛美を聴かせてくれた。午後からはクリスマス家の教会コンサートが行われ、大阪音大チームの素晴らしいコンサートなどがあり、イエスさまの誕生をみんなで祝った。
 南アフリカ共和国の黒人教会に於いて50年ほど前に世界的に大ヒットしたポピュラー音楽が讃美歌として歌われていることをご存じだろうか。サイモンとガーファンクルの最大のヒット曲「明日に架ける橋」だ。『荒れ狂う激流に架かる橋のように、私が身を横たえあなたを渡らせると歌われている。』この曲は神と人、人と人の間を断絶する全ての問題をイエスさまが十字架によって解決してくださるというイメージがある。教会でゴスペルを聞いていた時ひらめきが与えられたポール・サイモンが作った曲だ。アパルトヘイト(人種隔離政策)で差別を受け苦しんでいる自分たちの間に横たわる理不尽な差別や苦しみを無くしてくださる方がやがて来るという希望が、黒人の人々の大きな力になっている。
 クリスマスはイエスさまが平和の架け橋を架けてくださった日でもある。地の上に平和があるようにと願っておられる神さまに背を向けて歩む人の罪によって関係 の断絶、国と国との痛ましい戦争が繰り広げられこの地上は平和を失っている。イエスさまはクリスマスにお生まれになり十字架によって人間の不幸の原因である罪を除き天と地を結びつける架け橋となってくださった。
 イエスさまを信じる時神さまの愛を受け、人との関係に於いても憎しみと敵意から許し と和解の道へと導かれてゆく。イエスさまに出会い、断絶した父親との関係が回復し和解によって父親を天の御国に送るという想像も出来なかったことが実現したと、ある女性が証しをしてくれた。この女性の証しにあるようにイエスさまは架け橋となって荒れ狂う人間関係に和解と祝福の橋を架けてくださる。 
 クリスマスのこの時、イエスさまを贈ってくださったまことの神さまに感謝し平和の架 け橋となってくださるイエスさまをお迎えしよう。


『段階を踏みながらの開眼』 マルコ8:22~38 [礼拝メッセージ]

12月10日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 イエス様はベッサイダの地で目が不自由な人をいやされたが、この時2段階に分けて完全に目が見えるようにした。これは、弟子がイエス様に従う時、段階を経て教えに目が開かれていくことを表している。
 イエス様が弟子たちと行動を共にして3年たった頃、弟子が自分のことを正しく認識しているか確認すると、ペテロは「あなたはキリスト(真の王であり祭司であり預言者である救い主)です」と信仰告白した。しかし、イエス様がこれから起こる苦難(十字架)と復活について予告されると、弟子たちは理解することができなかった。イエス様は弟子たちを一喝し、弟子の心構え(イエス様に従い続けること)を教えられた。
 イエス様を信じて救われたら、次は弟子になり、イエス様の愛に感謝し、喜んで犠牲を払う生き方をしてほしい。イエス様がその人を通して実現するご計画があり、イエス様に従う時それが明らかになる。
 ペテロはヘルモン山でのイエス様の変貌を見てさらに目が開かれ、ペンテコステのご聖霊降臨で完全に目が開かれ、イエス様の生涯の意味が理解できた。あきらめないでイエス様に従うと、次々と目が開かれていく。
 ある男性の体験を紹介したい。彼は私と聖書の学びをしたが、神様の存在が理解できたのはその後の体験を通じてだった。北海道の大地に沈む夕日を見て、大自然を作った創造主の存在がわかり、賛美を聞いてイエス様が救い主であることが理解できた。また、人間関係に行き詰った時、自分の価値観を人におしつけていた罪と、その自分をゆるし受け入れてくれるイエス様に気づいた。ものの見方と相手への対応を変えることで人間関係が激変した。 
 主に従う時、段階を経て、いろいろな体験を通して私たちの目が開かれるように、イエス様は導いてくださる。

『パリサイ人とヘロデのパン種に気をつけよ』マルコ8:11~21 [礼拝メッセージ]

12月3日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 パリサイ人たちがイエスに求めた「天からのしるし」とは、「メシヤ(救い主)である証拠」のこと。しかしイエスはすでに、それを明らかにしてきた。例えば、生まれつきの盲人やツァラアトを癒すことができるのは、メシヤだけであるとユダヤ人は教えられてきたが、イエスはそのどちらも癒している(ヨハネ9:1〜7、マルコ1:40〜42)。そのような奇跡の力を見ても、パリサイ人たちは「悪霊どものかしらベルゼブルによることだ」と言って、イエスを信じなかったのである(マタイ12:24)。
 ここから教えられることは、求道者にも2つのタイプがいるということ。トマスのように「信じることができるように、裏付けを与えてほしい」という思いで求める人には、主はご自身を明らかにし、応えてくださる(ヨハネ20:24〜27)。しかしパリサイ人のように、どんなに証拠を見せても、最初から信じないと決めている人には、しるしを与えてはくださらないだろう。
 次にイエスは「パリサイ人とヘロデのパン種に気をつけるように」と言っている。パン種とは「誤った教え、解釈」のことであり、パン種がパン全体を膨らませるように、最初は小さな間違いであっても、放っておくと大きな影響力を与えることになる。例えばヨブ記を読むとき、神がヨブを苦しめているように感じるかもしれない。しかし、聖書の神は苦しむ者と共に苦しむ神であり、十字架で私たちの身代わりとなって苦しんでくださった神なのだ。神をどう理解するのかは、私たちの信仰に直結する。「そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された(ヨハネ3:16)」神を、私たちの信仰のベースにしたい。
 また、「パリサイ人のパン種」とは、行いによって救われるとする律法主義のことでもある。エペソ2:8〜9に、救いは恵みと神からの賜物によるのであり、行いによるのではないと、はっきり書かれている。つまり信じた時点で救いは確定しており、そこからもれることは決してない。神は人間を、能力や行いによる「使用価値」ではなく、貨幣のように変わらない「存在価値」で愛してくださっているのだ(ルカ15:8〜10)。
 では「行い」はどうでも良いのだろうか?否。エペソ2:10にあるように、行いは救いの条件ではなく、救われた目的、結果なのである。本当にイエスを信じた人は、地の塩、世の光としての役割を果たすように、生き方が変えられる。良い行いをも、神が備えてくださるのだ。

『わたしは世の光です』 ヨハネ8:12 [礼拝メッセージ]

11月26日礼拝メッセージ(川端伝道師先生)より

 今日のメッセージの箇所の御言葉は、「わたしは世の光です。わたしに従うものは、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」というものだ。
 旧約聖書では一番初めに「神は仰せられた。『光あれ』。すると光があった。」と記している。この世界にとって無くてはならないもの、全ての命にとって根源的に必要なものが光なのだ。
 また詩編36:9には「いのちの泉はあなたとともにあり、あなたの光のうちに、私たちは光を見るからです」とあり、これは私たち人間は太陽の光だけではなく、神様から来るまことの光こそ必要で、そのうちにいかされているのだと伝えている。
 出エジプト記には、神様がイスラエルの民をエジプトから脱出させるため、エジプト全土を真っ暗闇にされたとある。今の時代の夜とは違い、灯火もない真の闇はどれ程恐ろしかったことだろう。
 
 イエス様はご自分のことを「世の光」と言われたが、その光には二つの側面がある。姦淫の罪を犯した女をイエス様の前に連れて来た律法学者やパリサイ人は、「あなたはこの罪人をどのように扱いますか」と判断を迫り、彼らにイエス様はこう言った。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」。
 この時示されたイエス様の光が「義の光」だ。それはその場にいる全ての人の心にある罪を照らし出し、一人、また一人と去っていった。「正義の使者」として女を裁こうとしていた彼らは、イエス様の義の光に照らされて、皆その場にいられなくなったのだ。
 もう一つの側面はイエス様の「愛の光」である。彼は女に対して、「わたしもあなたに裁きを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」と、罪の赦しを宣言した。この光を見ることが出来たのはこの女性だけ、先に去っていった律法学者やパリサイ人は「義の光」は見ても、「愛の光」を見ることができなかった。私たちもこの女性のように、自分自身の心を「義の光」に照らされ、たとえ自分の罪がさらけだされようともそこに留まり、イエス様の温かな「愛の光」に照らし出される必要がある。へりくだりそこに留まることで、赦しの恵みの中に生きる者になれる。

 またイエス様は私たちに対して、「あなたがたは世の光だ」と仰られた。イエス様を信じ受け入れた者はすでに光を心に宿しているから、その光を輝かせなさい、と。では、世の光として生きるとはどういうことなのか。それは決して大きなことを成し遂げたり、その人自身がスポットライトを浴びることではなく、小さな平和に仕えること。周囲の人に温かい光をかざすこと。
 決して忘れてはいけないことは、「私たちは暗闇に遣わされている」ということだ。周りの環境や人に対して愚痴や文句を言うのではなく、それを受け入れ、その暗闇の中で静かな光を灯す街灯になること。イエス様は私たちに期待のまなざしを向けておられる、それぞれ遣わされている暗がりにおいて、小さくても確かな光を灯すことができるように。

『新約教会の回復』使徒2:42~47 [礼拝メッセージ]

11月19日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

Ⅰ.食事と共有
 イエス様は弟子たちや罪人、世の中の底辺に生きる人々との食事を大切にされた。コミュニケーションの場としても重要である食。実は食べる環境、雰囲気が味覚に大きく影響すると言われている。誰と食べるかが特に重要。初代教会の人々は見えないイエス様を中心に心を一つにして食事を共にし、神を賛美した。初代教会の祝福の印である家の教会の食事が豊かに用いられますように。
 経験の賜物の共有。過去に辛い経験を持つ人が、今同じような事で苦しんでいる人と分かち合いをすることで苦しむ人の慰めになることがある。また、乗り越えることができたことを思い返し、主の恵みを証する場となる可能性もある。あるいはこんな賜物共有の仕方もある。Mさんが音大生の友達とクリスマスフェスティバルに特別出演してくれることになった。日頃の成果を発表したいという思いとクリスマスフェスティバルを盛り上げてもらえると、お互いにwinwinの関係になる。
Ⅱ.使徒の働きに見る家の教会
 使徒の働きには、初代教会は家から始まったことが描かれている。8章にはクリスチャンを迫害していたパウロは家から家を巡って男も女も引きずり出して牢に入れたとあり、12章には救い出されたペテロがその不思議な出来事を知らせてほしいとマリアの家に行ったとある。20章「益になることは公衆の前でも家々でも余すことなくあなた方に伝え、また教えてきました。」パウロがエペソの長老たちへのお別れメッセージとしてのくだりである。   
 このように、多くは目立つことなく家庭といういくつもの小さな集まりが存在し、それらを拠点として主イエスの福音宣教が確実に行われていった。そしてこの家の教会がどんどん増殖して信じる人が多く与えられて、ローマ帝国中に広まっていき、国教化、国の宗教にまでなった。ローマ帝国をひっくり返した、その原動力は家の教会。令和のこの時代、教会が初代教会の霊的な力を回復するためにぜひ、初代教会の姿に戻りたいと切願している。
Ⅲ.牧場活性化の秘訣
「俺は信じへん」と言っていたOさん。その奥さまや牧場メンバーの熱心な祈りとGODタイミングで受洗へと導かれていった。その後、神さまの存在はOさんの生活や考え方まで変えていった。コントロールできなかったお酒の飲み方が変えられたばかりか、牧者の依頼も引き受けられた。「あなたは高価で貴い、私はあなたを愛している」や、主の恵みは弱さの内に現れる、とみことばを実感として受け止め、信仰をもって生活を選び取ることが出来るようになったという。さらにOさんは牧者を通してメンバーの人たちの痛みを共有することができるようになって、信仰と人格が広げられた。それぞれの牧場で3つのポイント、(祈りの成就による神体験、VIPの存在と救い、メンバーの成長、変化)こうしたことの一つでも、ぜひ体験してほしいと思う。

『愛は寛容、愛は親切②』Ⅰコリント13:4 [礼拝メッセージ]

11月12日(成長感謝祝福式)礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

Ⅰ.愛は寛容
『愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。』
(Ⅰコリント13:4)
 今日は「成長感謝祝福式」ですので、それにちなんだメッセージをさせていただきます。
 コリント人への手紙第一13章13節には、「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」とあります。ではなぜ、愛が一番すぐれていると言われているのでしょうか。同じ13章7節で「愛はすべてを信じ、すべてを望み」と説かれている様に、愛は信仰と希望の原点となっているからです。また、愛は神の本質そのものだからです。私たちは天国に於いて、神と完全な交わりを持つことになります。その時には信仰も希望も必要ありません。神様との完全な愛の交わりだけが残ります。この神の愛は、「行いによって」ではなく、「恵みと信仰」によってのみ無条件で得られるのです。行いは自分が愛されていると分った時に生まれてきます。愛は寛容と親切とをもって相手に伝わって行きます。「寛容」は許しの愛、「親切」は相手のニーズに応え、満たす愛です。イエス様は、自分の弱さを知らずに失敗したペテロや、イエス様を本当のメシヤと知らずに信者を迫害したパウロを許されました。寛容は相手を許す愛です。
Ⅱ.愛は親切
 親切は相手のニーズを満たすことにありますが、その一つの「褒めること」を考えてみましょう。子どもが草取りのお手伝いをしてくれた時、「お手伝いをしてくれていい子だね~」と人格を褒めたお母さんと、「お手伝いをしてくれてありがとう~」と行動を褒めたお母さんがいました。前者の子は、褒められることを期待して行動する様になり、後者の子は、自分の行いが他の人を喜ばせることを知るようになります。後者の子は自分に自信が生まれ、自分を好きになります。自分を好きになる人は、他の人に優しく接することが出来るようになります。褒めることの3ポイント①「途中で」②「こまめに」③「事実を」、を思い出して活用してみましょう。許しの愛である寛容と、相手のニーズを満たす親切の愛の実践にチャレンジする者とさせて頂きましょう。

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