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『愛は寛容、愛は親切②』Ⅰコリント13:4 [礼拝メッセージ]

11月12日(成長感謝祝福式)礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

Ⅰ.愛は寛容
『愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。』
(Ⅰコリント13:4)
 今日は「成長感謝祝福式」ですので、それにちなんだメッセージをさせていただきます。
 コリント人への手紙第一13章13節には、「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」とあります。ではなぜ、愛が一番すぐれていると言われているのでしょうか。同じ13章7節で「愛はすべてを信じ、すべてを望み」と説かれている様に、愛は信仰と希望の原点となっているからです。また、愛は神の本質そのものだからです。私たちは天国に於いて、神と完全な交わりを持つことになります。その時には信仰も希望も必要ありません。神様との完全な愛の交わりだけが残ります。この神の愛は、「行いによって」ではなく、「恵みと信仰」によってのみ無条件で得られるのです。行いは自分が愛されていると分った時に生まれてきます。愛は寛容と親切とをもって相手に伝わって行きます。「寛容」は許しの愛、「親切」は相手のニーズに応え、満たす愛です。イエス様は、自分の弱さを知らずに失敗したペテロや、イエス様を本当のメシヤと知らずに信者を迫害したパウロを許されました。寛容は相手を許す愛です。
Ⅱ.愛は親切
 親切は相手のニーズを満たすことにありますが、その一つの「褒めること」を考えてみましょう。子どもが草取りのお手伝いをしてくれた時、「お手伝いをしてくれていい子だね~」と人格を褒めたお母さんと、「お手伝いをしてくれてありがとう~」と行動を褒めたお母さんがいました。前者の子は、褒められることを期待して行動する様になり、後者の子は、自分の行いが他の人を喜ばせることを知るようになります。後者の子は自分に自信が生まれ、自分を好きになります。自分を好きになる人は、他の人に優しく接することが出来るようになります。褒めることの3ポイント①「途中で」②「こまめに」③「事実を」、を思い出して活用してみましょう。許しの愛である寛容と、相手のニーズを満たす親切の愛の実践にチャレンジする者とさせて頂きましょう。

『まことのぶどうの木』ヨハネ15:1-5 [礼拝メッセージ]

10月29日礼拝メッセージ(川端伝道師先生)より

 ヨハネの福音書の特徴の一つとして、イエス様の自己紹介である自己啓示7つ収められているが、その一つが「わたしは、まことのぶどうの木」だ。ぶどうの木の前に、「まことの」とあり、「正真正銘の」と強調されている。それは、旧約の時代神様が願うような実を結ばなかったイスラエルの民に代って、世界を祝福する為に地に植えられた「まことのぶどうの木」がイエス様ご自身だと啓示されている。
 ぶどうの木の幹であるイエス様、枝である私達。枝は木が無ければ枯れてしまい、幹も枝が無ければ実を結べない。イエス様と私達は同じ1本の木であって、一つの命を共有している関係で、イエス様に繋がって生きる事はキリストの命に結ばれて生きる事。その証明として、「私はぶどうのこの様なものだ」「あなたがたは枝のようなものだ」でなく、「私はぶどうの木で、あなたがたは枝です」。と言い切っておられる。イエス様は私達の事を「自分の事の様に」ではなく「自分の事として」考えておられる。それが、命を共有する関係である。
 幹であるイエス様と繋がる枝である私達には、豊かな実を結ぶと約束して下さったが、それはどんな実なのか?パウロがガラテヤ5:22で「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」と記している。これらの共通点は、自分と誰かの間で結ばれ自分の人生に残り続ける実ではなく、他の誰かの人生で結ばれていく実だという事だ。これこそ、イエス様が私達という枝を通して結ぶ事を願っておられる“実”である。そして、イエス様も同様に私達に多くに実を残して下さった。十字架によって示された愛が、イエス様と出会った数えきれない人々の人生の中で、その愛の実は、今もなお実り続けている。私達のとても小さな働きも、どんなに虚しく思えることも、イエス様と繋がっている限り、必ずどこかで実を結ぶ。これが、私達が枝として、まことのぶどうの木であるイエス様に繋がって生きる幸いなのである。何でもない自分が用いられる、たとえどんなに不器用でも必ず実が結ばれるので、主の御名の為になされる様々な働きに積極的に参与してく私達となりたい。

『祝宴の家より喪中の家』伝道者7:2 [礼拝メッセージ]

10月15日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 召天者合同記念礼拝が行われた。「思い出に残る故人との会話、一言」が今年のテーマだったが写真を通して故人のエピソードや思い出によって故人を偲び神さまがどのように関わってくださったのか、また私たちはどのように生きてゆくかを鑑みる貴重なひとときとなった。
聖書のことばに「祝宴の家に行くよりは喪中の家に行くほうがよい」という箇所がある。 祝宴の家よりも喪中の家に行くほうが人生を教えてくれるということだがこの意味を考えたい。
 長野県佐久市にぴんころ地蔵が建立され健康長寿を願い多くの人が訪れているという。そこにはピンピン生きてコロッと死にたいという人間の願望が表されている。コロッと死にたいという思いには苦しまずに死にたい、寝たきりになりたくない、周りに迷惑かけたくない、最後まで自分は自分らしく生きたいという願いが込められている。しかし同時に死という未知のものに対する恐怖もあるのではないだろうか。死後の世界に対する疑問は誰にも聞けないし、その答えは誰も知らない。死は一方通行なのだ。
 世界の偉人達に有ってイエスさまだけに無いものがある。それは墓であり、イエスさまは死から蘇られたので墓は必要ないのだ。パウロはイエスさまの復活の証人として、人類の罪を贖うためイエスさまは十字架にかかり死を打ち破って3日目に蘇られた事は聖書が教える最も大切なことだと体験を通して証言している。イエスさまは復活によって死後の世界を知っておられ死後どうなるかも知っておられる。
 癌で余名幾ばくも無い方が「癌で死ぬことも怖いが死後どうなるのか不安と恐れがある」 と言って苦しんでいたが友人を通してイエスさまに出会い、死に対する不安と恐れから開放され安心して天の御国に帰って行った。また、ダイナマイトを発明したノーベルは自分の意に反して武器として使われている事で苦しんでいたが兄の死を自分が死んだと誤報され自分がどう思われているかを知り、ダイナマイトで得た莫大な財産を世界に貢献した人に役立てたいという思いがノーベル賞誕生の基となった。死生観が定まると生き方も変わる。
 召天者記念礼拝を通して死を見つめ、主に在って自分の生き方を考える時としてゆこう。 

『祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。』       伝道者7:2


『エパタ』マルコ 7:31~37 [礼拝メッセージ]

10月8日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

  イエス様は以前多くの悪霊につかれた人を癒されたデカポリスという町に行かれた。人々はイエス様のもとに、耳が聞こえず口のきけない人を連れてきて癒しを頼んだ。イエス様は群がる民から彼を連れ出して個人的に、ご自分の指を彼の両耳に入れ、つばで彼の舌を触られ、天を見上げて父なる神様の力をいただいて、「エパタ、閉じていた耳よ開け」と命じられた。すると彼の耳は開き舌のもつれがとけ、はっきり話せるようになった。群衆は感動したが、イエス様が彼らにこのことを言い広めないように命じたことを守れなかった。イエス様の願っておられることと、正反対のことをすると同時に、本当の意味で聞くということの難しさを教えられる記事でもある。
 聴くとは相手の話に耳を傾け、真意を理解しようとすること。牧師でカウンセラーの田中信生氏は、そのためにはエコーが大切だという。エコーとは相手の気持ちや言葉をそのままリピートすることだが、その際のポイントは最も鍵となる言葉をエコーすることである。このエコーと同類項なのは反射傾聴と呼ばれるもの。子育てで子どもが問題を抱えているようにみえる場合、親はまず子どもの声に耳を傾け、適切なエコーをしてあげると、子どもは親に自分の気持ちを正直に話すようになる。反射傾聴で全てが解決するわけではないが、子どもの気持ちをほぐし、親がいつも味方であるという安心感を与えることができる。そしてこの反射傾聴は子どもだけではなく、あらゆる人間関係に有効である。エコーは心の扉を開く。
 教団のある前信徒理事の息子さんは、クリスチャンホームで育ち教会に通っていたが、小学校でいじめに遭い不登校になり、教会にも行かなくなった。その後二十歳で大学入学し卒業後弁護士になり、教会にも復帰した。弁護士を志したきっかけは、神様との交わりの中でいじめについて考え、神様がさせた経験ならば何か意味があるに違いないと考え、少しでもいじめに遭っている人を助けてあげたいからであった。彼は、不登校にならなければこんな進路を選ぶことはなかっただろうし、神様の不思議な導きを感じていると言っている、自分の意にそわない試練や苦しみにあったとき、この意味を主に聴くと、人間の思いを超えた答えが返ってくることが多い。主があえて赦すなら試練も意味がある。私の心の耳をイエス様の「エパタ」という一声をもって開いていただいて、しっかりと神様の声、人の声を聴き取ることができるようにと祈ろう。

『主よ。その通りです。でも』マルコ7:24~30 [礼拝メッセージ]

10月1日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 今日の箇所の前提として、イスラエル民族を「選びの民」、それ以外を「異邦人」と呼ぶ。しかしそれは、えこひいきではなく、イスラエルを通して人類全体を救うことが神の目的。つまり健全な選民意識とは、誇るためではなく、全人類を祝福するために選ばれているという使命に生きることである。
 このカナンの女は異邦人であったが、汚れた霊につかれていた幼い娘のために「すぐにイエスのことを聞き、やって来てその足もとにひれ伏した」とある。それは「このチャンスを逃したくない」という彼女の強い思いと信仰の表れだろう。これに対するイエスの「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのは良くないことです」という答えは一見冷たく思える。しかしそれは、救いはまずイスラエルからという優先順位によるものであり、同時に彼女の信仰を引き出すための言葉でもあった。彼女は異邦人だったが「食卓の下の子犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます」という信仰により、またイエスの「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました」という言葉を信じて従うことにより、素晴らしい応えを受け取ることができたのである。
 イエスの十字架と復活の後、使徒の働き10:44に書かれているように、異邦人を含め全ての人々に聖霊がくだされる時代となった。私たちも異邦人だが、今は恵みの時であり、全ての人がイエスを信じるだけで救われるのだ。
 またこのカナンの女は、イエスの言葉に反発するのではなく、救いの優先順位をそのまま受け入れた上で、「でも、子どもが食卓の下に落としたパン屑なら、子犬がいただいてもいい」と霊的発想力を広げている。そしてそれは、イエスは愛なるお方であり、苦しんでいる人をほっておかれないという、信仰に基づいた交渉でもある。ここから学べることは、「①相手の話をよく聞いて、そこからプラスを引き出す」「②神のご性質やみことばを盾にとって祈る」ということだ。
 私たちも、一見否定的に聞こえる言葉に出会ったり、自分の中に否定的な思いがわいてくることがあるだろう。しかしその後に「でも」とプラスの発想を引き出し、主に信頼して、みことばをもって祈っていこう。そうするなら、このカナンの女のように、主の恵みの御業を体験することができるだろう。

「私もOK,あなたもOK」 マルコ7:14~23 [礼拝メッセージ]

9月17日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 イエス様は,「人を汚すのは,食物ではなく人の内から出るもの(罪の性質)である」と言われ,具体的に悪い行為をあげた。さらに,それを実行しなくても,心で思うことも罪だと言われた。人は自分の力で罪を解決できない。私たちの罪の処罰の代わりに身代わりになってくださった,イエス様の十字架のあがないを受け取るしかない。

 対人関係において自己受容できる人(私はOK)は,他の人を受容できる(あなたもOK)。人は自分をどう理解し,受け入れているかが大切で,健全なセルイメージが豊かな人生のカギだ。
この世では人は行いで評価されるが,聖書(エペソ2:8~9)には「信仰によって救われた,行いによるのではない」と書かれている。創造主なる神様は,能力や態度によってではなく,私たち自身を愛してくださっている。私たちをこの世界に必要な存在として作ってくださったが,人はあら探しや争いをしている。まことの神様は,愛するものを傷つけること(罪)に怒り悲しみ,罪の解決方法が御子イエス様の十字架だ。この十字架の恵み,そのままの私たちをOKと言ってくださることがわかれば,卑屈さや高慢さがなくなり,自分を受け入れ,隣人も受け入れられるようになる。

 人をしばるのは内側から出てくる考えで,セルフイメージを変えれば,人は変わることができる。人は,経験と努力で今より成長できる。自分の成長を信じれば,失敗しても再チャレンジし,他人の成功をがんばりのエネルギーにできる。
 日本の若者の自己肯定感が低いのは,「他人との比較による自己肯定感」に基づくからだ。創造主である神様が「一人ひとりを価値ある存在として愛している」ことがわかると,自己肯定感が変わってくる。



『口伝律法と真実の教え』 マルコ7:1~13 [礼拝メッセージ]

9月10日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 パリサイ人や律法学者たちは、イエス様の弟子たちが食事の際に「手を洗っていない、清めの儀式をまもっていない」と非難した。しかし、このことはモーセの律法によるものではなく、昔の人間の作った言い伝え、「口伝律法」による掟である。彼らは旧約聖書に書かれているモーセの律法ではなくこの口伝律法を守るように強いて、当時の人々をがんじがらめに縛っていた。
 イエス様は決して律法を守っていないわけではない、むしろモーセの教えを遵守していた。パリサイ人や律法学者たちは人々に厳しい口伝律法を押しつけ、その実抜け道を作り利益を得ている、そんな彼らを「口先ではわたしを敬うがその心はわたしから遠くはなれている」と厳しく糾弾した。
ここで、私たちはどうだろうかと考えさせられる。
 「学力の経済学」という本によると、噓をつかない、人に親切にする、ルールを守る、勉強をするなど、しつけを受けた子どもは将来年収が上がるとあった。そして生きていくためには学力よりも「非認知能力」こそが重要だと書かれている。自制心・忍耐力・意欲などは学校で教えてくれない。では家庭以外のどこで教えるのか?教会だ。
 幼稚科・Jキッズ・中高科ではディボーションを大切にしている。私たちの体は食物から栄養を取り、心の栄養はみことばから摂取する。そして分かち合いをすることにより、喜び合い励まし合い、愛し合い成長できる。
 しかし、子どもたちを導く羊飼いとしての働き手が不足している。たとえ家庭や学校で辛いことがあっても、聖書の愛を通し一緒に考え伝える、そんな働き手としてどうか応答していただきたい。
 さらに牧場も「原点回帰・ルネサンス」が必要だ。コロナの影響により形を変えられることを余儀なくされた。今こそ本来の牧場の姿に戻そう。牧者カンファレンスでは招待キリスト教会のC夫妻の証をされたがそれによると、牧場のメンバー皆で協力し合い、VIPのタイ人ご家族のために、その父親の誕生日のお祝いをした。ある人は送迎、ある人は会場の飾り付け、ある人は料理を用意するなど。ここまで徹底するのは難しいが私たちも、このCさんのスピリットを見習いたいものである。


『湖上の訓練②』マルコ6:45~52 [礼拝メッセージ]

9月3日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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Ⅰ.訓練課題は、忍耐と神の時
 「それからすぐにイエスは弟子たちをむりやり船に乗り込ませ…」とある。なぜ「むりやり」なのか。5千人に給食を配り、感謝されたり崇められると自分の力と勘違いして高慢になってしまう。そうならないよう「むりやり」民衆と切り離したということである。
 その後、弟子たちを乗せた船は途中向かい風に会い、必死のパッチで漕ぎ続けること12時間!もう限界という時、イエス様は湖上を歩いて彼らの所に助けに来られた。イエス様を幽霊だと見間違い金切声をあげた弟子たちに『しっかりしなさい、わたしだ、恐れることはない』と言われたイエス様。「わたしだ」には特別な意味がある。
 かつてモーセがホレブの山で真の神さまに出会った時「私の名はエゴエイミ・“ある”というものである」と言われたこの言葉なのだ。旧約の神さまと新約のイエス様は一体であることが証明されている。
「そして彼らのいる船に乗り込まれると風はやんだ。弟子たちは心の中で非常に驚いた。」
真の神さまであるイエス様が来てくださる時、長い間祈っても努力しても道が開かれなかったことが、叶えられ実現する。それが神の時である。 

Ⅱ.ペテロが用いられた理由⇒わたしを愛しているから
 ペテロにはイエス様への熱愛のゆえの微笑ましいエピソードが数多くある。水の上を歩いてイエス様の所へ行くが、怖くなって溺れて叱られたこと、足だけじゃなく、手も頭も洗ってください、とはしゃいだこと。命欲しさにイエス様との関係を三度否定したが悔い改め、イエス様の復活の時、三度愛を告白したペテロ。主を愛してやまないペテロに対し、神さまはその祈りに応え彼を助け、彼を高く上げようと約束してくださった。本当に人を動かすのは愛。主イエス様は私たち一人ひとりに問われる。「あなたはわたしを愛しますか?」私たちは、答えたい。「私があなたを愛していることはあなたがご存知です」と。それができるならば、イエス様は私たちを豊かに用いてくださる。

Ⅲ.弟子たちの特質を用いられるイエス様
 ペテロの性格を見ているうちにペテロは今でいうADHDだと思う。ADHDの人の特徴はその活動性だ。一つの事に囚われずに次々に新しいものにチャレンジできる。ペンテコステの日にご聖霊が与えられたとき、そのプラスの面が大いに発揮されることとなり、ここから本格的な異邦人伝導が幕を開けた。ヘロデ王によって処刑されようとしていた時、以前のペテロなら恐ろしくて一睡もできないであろうが、ペテロは平安の内にいて二人の兵士の間で眠っていた、とある。イエス様は不安定なシモンの中に岩=ペテロになる可能性をご覧になってペテロをスカウトしたのだ。イエス様は私たちよりも私たち自身を本当によくご存知だ。ペテロを用いてくださる主は私たちもイエス様への愛さへあるならば弱点と思える特質でさえプラスに変えて用いることのできる方である、このことを覚えたいと思う。

『契約の虹』 創世記9:8~13 [礼拝メッセージ]

8月27日礼拝メッセージ(川端伝道師先生)より
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Ⅰ.心を痛める神様
『主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を創ったことを悔やみ、心を痛められた。』(創世記6:5~6)
 ノアの箱舟の物語は、絵本や映画などでも馴染み深い物語ですが、同時にかなり誤解されやすい物語の一つでもあると思います。それは人類の堕落に対する神様の厳しい裁き、と言う側面だけが強調されやすいという事です。聖書には『主は⋯心を痛められた。』とあります様に、義なる故に罪を裁くお方であると同時に、愛なる故に悩み、苦しみ、葛藤され、心を痛められるお方として描かれています。罪人である私たち人間は罪の深刻さに無頓着であり、まして神様の心の痛みには鈍感ですが、私たち以上に罪の痛みを知っておられる、神様の人格的な姿をまず覚えたいと思います。

Ⅱ.陸地の上に立つ箱舟
『あなたは自分のために、ゴフェルの木で箱舟を造りなさい。』(創世記6:14)
 聖書に「船」が出てくる時に、私たちはそこに「教会」の姿を重ねることが許されています。陸地に建造される箱舟は、陸地の常識とはかけ離れた異質な共同体、すなわち教会を表していると言えます。異質と言っても、この世から完全に浮いているという事ではなく、しかし、実情はこの世とは全く異なっています。それは、罪に支配されているこの世と、イエス様が支配されている教会の違いと言えます。教会は罪に支配された地上の上に立つ箱舟に例えることが出来ます。箱舟に与えられた本当の使命、すなわち、一人でも多くの方をこの船にお招きすると言う宣教の働きのために、この地に立てられた船の建設に励んで参りたいと思います。

Ⅲ.契約の虹
『わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それが、わたしと地との間の契約のしるしである。』(創世記9:13)
 洪水ののち、神様は契約のしるしとして空に虹をかけて下さいました。神様はその愛と義を巡る激しい葛藤の中で、人間を罪から救うための方針を転換されました。それが洪水ではなく「虹」なのです。虹は原文では「弓」と言う語彙が用いられており、『私は、雲と雲の間に弓を置く。』と言う意味になります。その弓の形状から矢の向きは天に向けられている事が分ります。神はご自身の御子、イエス様が十字架の上でその身を滅ぼすことによって人間をその罪から救うと言う計画に方針転換されたのです。神の一方的な愛のゆえに、罪人に過ぎない私たちを再び受け入れようと、愛と義の葛藤を乗り越えて下さって、虹と言う形で神様の愛のしるしを示されたのです。私たちも、この愛に突き動かされて、神様を愛する道を日々、選び取っていく者とさせて頂きましょう。

『五千人の給食』マルコ6:30~44 [礼拝メッセージ]

8月13日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 私達人間と羊には共通性がある。羊は近眼で崖や野獣の待つ場所に知らずに近づく。人間は人生の意味や死後の事など根本的な疑問を解決せずに日々の必要に追われて生きている。羊は無防備で野獣にすぐに襲われる弱さがある。人間も病気・苦難に見舞われた時、自分の力ではどうする事もできない。羊は他の羊の行動模倣をして安心を得る習性があるが、人間も同様だ。安全に正しく導き手当をしてくれる羊飼いが必要な様に、人間にも真の羊飼いであるイエス様が必要なのだ。
 五千人の給食は、実際は二万人に分け与えたと考えられる。五つのパンと二匹の魚を増やすのはイエス様、配るのは弟子達で、弟子達は人々に感謝され用いられる喜びを味わった。これは、“イエス様が召された後は弟子達が御言葉や恵みを人々に分け与えてなさい。”という意味がある。もう一つのパンの奇跡(デカポリスでの四千人の給食)では ユダヤ人にも異邦人にも同じように恵を与える事を示している。
 先日、牧者カンファレンスで奉仕をした中学性女子が、カンファレンスで多くの人に仕える喜びを証ししてくれた。また、中高生担当のスタッフ達も中高生に仕える恵や喜びを感じ異口同音に「奉仕をさせて頂いた」と感謝をする。この様に、私達もイエス様だけでなく人々にも仕えていきたい。
 教会の主要任務は宣教と弟子化(または、礼拝教育と伝道と表現する)があり、この主要任務の遂行の為に、社会的責任が必要となる。イエス様は福音宣教と同時に人々を癒した。当教会での社会的責任(教育・福祉的任務)は、地域への幼児教育、子ども食堂が当てはなる。イエス様の祝福を頂きながら活動するには優先順位は大切で、第一に主要任務、その次に社会的責任の実践である。7月に礼拝奉仕をして下さった土浦めぐみ教会の働きを見ると、デイサービス、障害児支援、学童支援などに教会員のうち30%以上が関わり、未信者もその活動に協力し教会に繋がっている。教会の社会的責任の働きが福音宣教の後押しになっているのだ。当教会も秋から1歳児保育を始め、子ども食堂、高齢者への働きを検討している。教会は受けるだけでなく、その恵みを分け与える場所である。その時、主に用いられる喜び、人々に喜ばれる恵みを体験する。その為に用いられる群れ・松原聖書教会となっていきたい。

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