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『依存と自立』 マルコ9:30~37 [礼拝メッセージ]

4月14日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

Ⅰ.理解できなかった弟子たち(苦難のしもべと栄光の王)
『それは、イエスが弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。しかし、弟子たちにはこのことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。』(マルコ9:31.32)
 イエス様は、十字架の道を歩まれることを弟子たちに教えられました。しかし、弟子たちは「栄光の王」はローマ帝国から解放して下さる王として誤解しており、「苦難のしもべ」として殺されるということは信じたくありませんでした。「苦難のしもべ」は初臨に於いて、「栄光の王」は再臨に於いて実現することをまだ理解できませんでした。
Ⅱ.誰が一番偉いか(義認、聖化、栄化)
『一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。』(マルコ9:33.34)
 イエス様は、霊的な理解が不足していた弟子たちに教える必要を感じました。「救い」にはイエス様を信じた時に義と認められる「義認」、イエス様の姿に成長する「聖化」、携挙の時に栄光の姿に変えられる「栄化」の3つの段階があります。霊的に幼子だった弟子たちに、「神の国におけるリーダーは、小さな子供を受け入れ、仕える姿こそ、その背後におられる神様にお仕えする姿勢である」と教えられました。
Ⅲ.依存と自立
 「誰が一番偉いか論じ合っていた」弟子たちは、権力依存症にかかっていたという事が出来ます。イエス様という力に依り頼んで自分の欲求を満たそうとしていたのです。この思いは十字架の死によって完全に砕かれ、復活の主にお会いし、聖霊の助けを頂いた時に霊的理解力が与えられ、「義認」から「聖化」への道へと進んで行くことになります。つまり、依存から脱却し、自立への歩みが始まったのです。私たちも良きサマリヤ人をモデルに、自分の自立を失うことなく、隣人の自立を手助けできる者とさせて頂きましょう。

『わたしの名のゆえに受け入れるなら』マルコ9:30~37  [礼拝メッセージ]

4月7日(入学祝福式)礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
 イエス様と弟子達はカペナウムのペテロの家まで向かっていた。その道中、イエス様はご自身が死んで三日目に復活される事を弟子達に話されたが、弟子達はその意味を正確に理解できず、イエス様が亡くなって以後の事を考え、誰が一番出世し地位が高くなるのかを熱心に論じ合っていた。そんな弟子達にイエス様は、地位や名誉を求めるのではなく人に仕える者となる事を教えられ、人に仕える一例として、当時、ごまめ扱い(半人前、力や能力の無い者)されていた子どもを、かけがえない存在として認める事を弟子達に求められた。
 神様の許しと愛によってこの世に誕生した子どもや幼子を受け入れる事は、イエス様を受け入れる事、そして、それは神様を受け入れる事だと語られた。

(ある動画の鑑賞)あらすじは、親が病気で薬を万引きした子どもが、店主に叱責を受けるが、それを見ていた飲食店店主が事情を理解し薬代を払い、自身の店の野菜スープを子供に与えた。30年後、飲食店店主は病に倒れ莫大な治療費が必要となり、家族は店も売りに出し困り果てる。そんな時、治療代は30年前に支払い済みとして0円の請求書が届く。あの万引きをした子どもは医師となり店主を救っていた。

 この動画では、神様の愛ゆえに存在する子どもには将来があり、子どもに善行できる人には報いが与えられる事を伝えている。たとえ、この世で報いがなかったとしても、天の御国で報われるのだ。イエス様は子どもに仕える事を心から祝福して下さる。当教会でも幼子や子どもに仕えるプログラム(こひつじ組、プリスクール、幼児園、Jキッズ、中高科、子ども食堂)を行っている。子ども達に仕える事はイエス様に仕える事との認識を共有して今年度もこの働きを進めていきたい。


『見たことも、聞いたこともない②』Ⅰコリント 2:1~10  [礼拝メッセージ]

3月31日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 イエス様の十字架の死と復活こそ、目がみたことのないもの、耳が聞いたこともないもの、神の知恵、神の奥義である。
 救い主が十字架で死に、復活するなど常識では考えられないが、愚かで無力な十字架のことばには神の力が宿っている。もし復活が嘘なら、恐れて隠れていた弟子たちの殉教、パウロの回心は説明できない。復活が事実と信じられるのはご聖霊の働きである。サタンはイエス様を十字架につけて殺し、勝利したと思ったが、神はイエス様を復活させ、サタンを敗北させた。それ以来サタンは人々が救われないように躍起になって働く。 十字架は無意味で復活などありえないと思うよう働きかける。 
 私達も復活できると約束されている。信仰による救いを受け取ったかどうかで死後に苦しみの世界に行くか、慰めの世界=パラダイス=第三の天、天国に行くか決まる。死は肉体と霊魂の分離である。救われた人はパラダイスで復活の時を待つ。復活の体は部屋に一瞬で入ることでき、見てさわること、食べることもできる。復活の体はイエス様が再臨される時与えられる。まず、キリストにある死者がよみがえり、それから、まだ生きているクリスチャンが瞬時に引き上げられ空中で主と会う。その時がいつなのかわからない。だから目を覚ましていなさい。
 元淀川キリスト教病院院長、柏木哲夫氏は①自分に起こる事すべては益と変えられる ②死後の行き先を知り、そこに行けると確信がある この二つがあるならかなり幸せであると言う。人生には三つの坂、上り坂・下り坂・「まさか」という坂がある。「まさか」はほとんど不都合なことで不幸に思えるが、将来益になると思える。死は新しい世界への出発と確信するなら幸せである。
 では、すべてが益になるのなら、私達は何もしなくていいのか?いや、やるべき事をし、どうすることもできない事は主に委ねる。これがクリスチャンの生き方である。例えば、子供とピクニックに行く約束の日、あいにくの雨。 雨天用のプログラム考え、お祈りして寝る。晴れれば喜び、雨なら、「残念だね」と思いっきり子供の心に共感する。そして、世の中にはどうすることもできない事があることを子供と共有する。雨が降るから虹が出ることも分かち合う。雨は人生そのもので、現実に厳しいことはある。困難があっても大丈夫と思えるのが成熟したクリスチャンである。