SSブログ

『誤解、偏見、先入観』マルコ6:1~6 [礼拝メッセージ]

7月16日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
LINE_ALBUM_20231219_231219_44.jpg

 イエスがイザヤ書で予言されたメシヤであることを、郷里ナザレの人々は信じることができなかった。それは「この人は大工ではないか。マリアの子で…」という言葉からわかるように、昔から知っているイエスが、人間を超えるものだとは信じられないという誤解や偏見、先入観が邪魔をしたからであろう。このように、家族や親族への証しは、関係が近すぎるが故の難しさがある。
 イエスは私たち一人一人に「あなたはわたしをだれだと言いますか」(マタイ16:15)と問いかけている。「3分でわかる聖書」の著者の中川健一牧師によると、イエスの実在について疑問を挟む学者はいないという。しかし、イエスが単なる人間だとしたら、「偉大な教師」や「聖人」などという評価はあり得ない。なぜならイエスは、自分を神だと宣言し、ユダヤ人たちから神を冒涜する者として処刑されそうになっても、その主張を変えなかったから。つまり「イエスがだれか」という問いに対する選択肢は「①人となられた神②問題のある人」の2つしかない。私たちもペテロのように、聖霊によって「あなたは生ける神の子キリストです」と告白したいものである。神でなければ私たちを救えないし、人でなければ私たちの罪の身代わりとなることはできないのだ。
 次にイエスの人を見る目について、2つのポイントから考えてみたい。まず、私たちは人の良い所より欠点に目をとめやすい。しかしイエスは、人の長所を見る。それは私たち一人一人が神の作品だから。人間関係を良くするポイントは、神がその人に与えている賜物や長所を見つけ、ありのまま表現してあげることである。
 次に、イエスはその人の過去や現在だけではなく、将来を期待して見る。ペテロはイエスが捕らえられた後、イエスを知らないと否定する大きな失敗をしたが、悔い改めて立ち直り、イエスの証人としての生涯を送った。それは「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」というイエスの祈りがあったから。サタンはペテロの失敗で彼を挫こうとしたが、イエスは逆に、ペテロが自分の弱さを知り、主に依り頼む信仰を学ばせるために、なくてはならない訓練とされた。私たちが何度失敗しても、主の選びは変わらない。失敗によって痛い思いはするが、その経験を通して、ペテロのように主の器へと変えていってくださる。過去にとらわれず、現在だけがすべてとも思わず、将来に期待する目で私たちを見てくださるイエスのように、私たちもまた人を見ていきたい。

「公に告白する時」マルコ5:25~34 [礼拝メッセージ]

7月9日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
LINE_ALBUM_20231219_231219_42.jpg
 本日証しした牧者のHさんは「イエス様を信じて死を恐れなくなった」と言っている。また,I執事は,闘病後に亡くなったお母さんの姿に,天国に希望をもつ信仰のすばらしさを感じたと語った。
 仏教・イスラム教の創始者は亡くなったが,キリスト教はこれらの宗教と異なり,イエス様が死から復活された。キリストを信じる者には,死の悲しみを越えた希望がある。亡くなった人の魂は天国で永遠に生き,イエス様の再臨の時に体がよみがえる。これがイエス様を信じる人たちの希望の根拠だ。

 本日の聖書箇所に書かれている場面では,イエス様の周りに大勢の群衆がいて,その中に長血を患う女性がいた。彼女はイエス様を救い主と信じ,「衣に触れたら救われる」という信仰でいやされた。この時イエス様は「誰がさわったのか」とたずねられた。イエス様はそれが誰か知っているのに,自分から告白し,心からの感謝(人格的交わり)をしてほしいと思ったのだ。
 聖書にはいやしの奇跡が書かれている。それは,イエス様は愛の行為として,罪と同時に罪の結果である病いもいやされたからである。私たちはイエス様にいやしを願い,祈ってもよいが,祈りがきかれた時に恵みに感謝をささげ,公に証しをしているだろうか?
 イエス様との人格的な交わりに,ディボーション・メッセージへの応答がある。御言葉を通したイエス様の語りかけを自分自身にあてはめ,祈りと行動を通してこたえていくことを,イエス様は望んでおられる。メッセージで示されたことを表明し,イエス様の祝福を祈ってもらうのが決心の祈りだ。

  人前で証しをすることを敬遠する人がいるが,イエス様に救われた人が証しすることでイエス様のすばらしさが周囲の人に伝わる。先週のI執事のメッセージからも多くのことを教えられ,実行にうつしている人もいる。 皆さんも,受けた恵みを教会で,牧場で,家庭で,友人との交わりで証ししてほしい。

「天からの梯子」創世記28:10~19 [礼拝メッセージ]

6月25日 礼拝メッセージ(川端伝道師先生) より
LINE_ALBUM_20231219_231219_9.jpg

Ⅰ.元祖クリスチャンホーム 
ヤコブの祖父は信仰の父アブラハム、父はイサク。有名なイスラエル民族の礎となる家系。だが性格が正反対の双子の兄エサウと、両親の偏愛が後の悲劇を生んでいくことになる。弟ヤコブを愛した母リベカはヤコブに長男の祝福を受けさせるために兄エサウに成りすます提案をし、兄エサウもまた神の祝福を軽んじて長男の権利を一杯のスープのために譲ってしまうという出来事が起きる。父イサクを騙し長男の祝福を受けたヤコブに対しエサウは激しい殺意を燃やす。各々が持つ弱さ、罪の性質が、ものの見事に噛み合って、家族の絆は見るも無残に破れてしまった。
ヤコブは晩年に至るまで家族にまつわる試みに砕かれ続ける。しかし、彼が神さまにあって豊かな取り扱いに与ったのもまた、これら家族の問題を通してであった。

Ⅱ.ヤコブが見た夢
 母リベカに従い、ヤコブは母の兄弟ラバンが住むというハランの地に向かう。長男の権利が何の役に立ち得よう、枕にした石の冷たさは強烈な後悔と、自責の念を沸き上げさせた。その夜、不思議な梯子の夢をみたヤコブ。夢を通して神さまがご自身を表してくださり、告げられた言葉「見よ、私はあなたと共にいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。私は、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」
 イエス様が地上に降りて来てくださった目的、それは罪の暗闇の中で取り残され、ひれ伏している私たちを救い出すため、そして、明確な神の言葉によって、私たちを励まし、再び立ち上がらせて下さるためであった。ヤコブが見た「天からの梯子」の夢は、まさに、救い主イエス・キリストの受肉を表すものとして理解することができる。

Ⅲ.私はそれを知らなかった
 「まことに主は、この場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった」
ヤコブは梯子の夢の中で、まことの神さまとの真実な出会いを果たした。それ以前のヤコブは自分の願いの実現のために神の名を持ち出し、自分の行動を正当化するために、主の御心を語った。都合よく神の名を借りた、ただの人間の言葉だった。
私たちも神さまとの真実な出会いが必要だ。長い人生の中で自分自身に語られる、主の言葉を聞かなければならない。それは真っ暗闇の中なのかもしれない。しかし、イエス様は下りてきてくださり、ヤコブの語られた約束の言葉を私たち自身にも語り掛けてくださる。