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『五千人の給食』マルコ6:30~44 [礼拝メッセージ]

8月13日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 私達人間と羊には共通性がある。羊は近眼で崖や野獣の待つ場所に知らずに近づく。人間は人生の意味や死後の事など根本的な疑問を解決せずに日々の必要に追われて生きている。羊は無防備で野獣にすぐに襲われる弱さがある。人間も病気・苦難に見舞われた時、自分の力ではどうする事もできない。羊は他の羊の行動模倣をして安心を得る習性があるが、人間も同様だ。安全に正しく導き手当をしてくれる羊飼いが必要な様に、人間にも真の羊飼いであるイエス様が必要なのだ。
 五千人の給食は、実際は二万人に分け与えたと考えられる。五つのパンと二匹の魚を増やすのはイエス様、配るのは弟子達で、弟子達は人々に感謝され用いられる喜びを味わった。これは、“イエス様が召された後は弟子達が御言葉や恵みを人々に分け与えてなさい。”という意味がある。もう一つのパンの奇跡(デカポリスでの四千人の給食)では ユダヤ人にも異邦人にも同じように恵を与える事を示している。
 先日、牧者カンファレンスで奉仕をした中学性女子が、カンファレンスで多くの人に仕える喜びを証ししてくれた。また、中高生担当のスタッフ達も中高生に仕える恵や喜びを感じ異口同音に「奉仕をさせて頂いた」と感謝をする。この様に、私達もイエス様だけでなく人々にも仕えていきたい。
 教会の主要任務は宣教と弟子化(または、礼拝教育と伝道と表現する)があり、この主要任務の遂行の為に、社会的責任が必要となる。イエス様は福音宣教と同時に人々を癒した。当教会での社会的責任(教育・福祉的任務)は、地域への幼児教育、子ども食堂が当てはなる。イエス様の祝福を頂きながら活動するには優先順位は大切で、第一に主要任務、その次に社会的責任の実践である。7月に礼拝奉仕をして下さった土浦めぐみ教会の働きを見ると、デイサービス、障害児支援、学童支援などに教会員のうち30%以上が関わり、未信者もその活動に協力し教会に繋がっている。教会の社会的責任の働きが福音宣教の後押しになっているのだ。当教会も秋から1歳児保育を始め、子ども食堂、高齢者への働きを検討している。教会は受けるだけでなく、その恵みを分け与える場所である。その時、主に用いられる喜び、人々に喜ばれる恵みを体験する。その為に用いられる群れ・松原聖書教会となっていきたい。

『選択と責任』マルコ 6:14~29 [礼拝メッセージ]

8月6日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 神の国を宣べ伝え、様々な奇跡を行うイエス様の名が知れ渡り、ヘロデ王の耳にも入った。ヘロデは自分が不当に殺してしまったヨハネが化けて出てきたのではないかと怯える。
 ヘロデは自分の妻を追い出し、兄弟ピリポの妻ヘロディアを奪って妻としていた。しかもヘロディアは姪であり近親結婚でトリプルの罪を犯していた。ヘロデは、その罪を勇気をもって糾弾するヨハネは邪魔者だ、しかしヨハネは聖なる人で、その教えには納得せざるをえない、と二つの思いに揺れていた。ヘロデは①王を糾弾するヨハネを野放しにはできない、②ヘロディアからヨハネを守る、この二つの理由からヨハネを牢につないでいた。しかし、まことの神の前では二心は通用しない。必ず選択を迫られる時が来る。ヘロデは自分の誕生日の祝宴で踊りを披露したヘロディアの娘に「何でもほしいものを与える」と誓ってしまう。この時とばかりにヘロディアは娘に「今すぐにバプテスマのヨハネの首を盆に載せていただきたい」と言わせる。ヘロデは体面もあり「ノー」と言えず、ヨハネの首をはねさせた。たとえ権力者であっても、人は罪の前にみじめな存在である。
 私達は「イエス」と「ノー」が言えるようになりたい。 ヨハネは自分の命を危険にさらしてでもヘロデの罪を指摘した。それはヘロデを悔い改めに導くためでもあった。主から与えられた責任と、本当に相手のためを思うなら「ノー」と言わなければならない時がある。ヨハネがヘロデの不正を咎めた動機は怒りであった。聖書は「怒っても罪を犯してはならない」と言う。怒ってもいい。喜怒哀楽は神が人間に与えて下さった感情である。ただ怒りのままに行動せず、時間をおいて話し合うなど怒りのコントロールは必要である。
 ヘロデはヨハネを殺したくなかったが、後に引けなくなりやってはいけないことをやってしまった。 ヘロデが大恥をかいても「神が送られたヨハネを殺すことはできない。ごめん」と謝ったなら、罪の呵責に一生悩むことはなかったであろう。 
 私達も「あの時ああすれば良かった」と示されることある。正直に悔い改めて、赦しをいただきたい。「ノー」と言うべき時に「ノー」と言える勇気・知恵・力が与えられるように、どんなに大恥をかいても間違った時は頭を下げる勇気が与えられるように祈っていきたい。 

『12弟子の派遣』マルコ6:7~13 [礼拝メッセージ]

7月23日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 主は「イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい」と12弟子に命じられた。もちろん主は全世界に福音を宣べ伝えることを目指しておられる。しかし与えられた時間、人数、様々な制約の中で伝道するには優先順位を考えて行動せよと命じたのだ。
 私達が示されることはなんだろう。適応としてクリスチャンホームの子ども達へ信仰継承してゆくことではないだろうか。Jキッズの存在理由もそこにある。コロナでダメージを受けたJキッズを立て直すために色々な改革を断交している。その一つとして京都聖書教会が取り組んでいる子ども達の居場所としての駄菓子屋を見学してきた。Jキッズとこども食堂をコラボさせるというアイデアを基に松原流の駄菓子屋を行ったら子ども達が楽しいと感じ、友達を誘って参加するという大きな結果が生まれた。
 8月に行うJキッズキャンプ、J2キャンプも4年ぶりに蒜山高原で行われる。自分たちに出来ることを通して大切な子ども達に主の恵みを伝えて行こう。
 私たちの生活でも優先順位を考える事は重要だ。パレートの法則(20:80の法則)は優先順位をつけて最も大切な20%のことをすれば80%を得たことになるという。成すべき重要な事ができるように御聖霊に祈り求めよう。
主は12弟子に汚れた霊を制する権威をお与えになったが、それは私たちにも与えられている。福音を伝えることによって主を信じた人は悪霊や迷信から解放され人の不安を悪用する霊感商法などに騙されない。福音によって人々が霊的開放されると悪霊は追い出されるからだ。
 伝道旅行に際して主は弟子たちにパンもお金も持って行くなと命じられた。何故だろう。 まことの神さまに信頼することを教えるためであり、信仰を鍛えるためだった。当時は旅人をもてなす習慣がありその習慣を根底にして言われたのだ。今の献身者の人々はどうだろう。今の時代ではもちろん無理だ。この主のご命令は当時の12弟子に言われた事で現代の献身者に言われたのではない事に目を留めよう。
 聖書の正しい解釈は大切であり健全な信仰生活に必要不可欠だ。統一教会やモルモン教など誤った解釈で人々を苦しめる異端の宗教が横行している。正しい解釈を礼拝のメッセージや日々のみことばで養い、子ども達にそして人々に主の恵みを宣べ伝えてゆこう。
 真理はあなたたちを自由にします。(ヨハネ8:32)