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松原聖書教会 [教会紹介]

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松原聖書教会(ジョイファミリーチャーチ)は、大阪府松原市(大阪市と堺市のとなり)にある
キリスト教(プロテスタント)の教会です。


赤ちゃんからご高齢の方まで、
毎日曜日には200人以上が礼拝に集い、ともに真の神様を礼拝しています。

その他、各年代の会や、少人数の集いが開かれ、
楽しい交わりの時が持たれています。   

興味、関心のある方はぜひおいで下さい。  →教会HP

『例祭に示された神の救いの計画』マルコ9:9~13 [礼拝メッセージ]

1月21日礼拝メッセージ要約(野口牧師先生)より

Ⅰ.分からなかった弟子たち
『彼らはこの言葉を胸に納め、死人の中からよみがえると言われたのはどう言う意味か、互いに論じ合った。』(マルコ9:10)
 変貌山から下りながら弟子たちは、イエス様が語られた「死人の中からよみがえる時まで」と言われたことばの意味が分りませんでした。メシヤ像について混乱していた弟子たちは、「なぜ、律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っているのですか。」と尋ねます。イエス様は逆に「どうして、人の子について、多くの苦しみを受け、蔑まれると書いてあるのですか。」と尋ねています。弟子たちはエリヤがすでに来ていることや、主の救いの計画について理解していませんでした。これが混乱の原因となっていました。

Ⅱ.例祭に示された神の救いの計画
 レビ記23章には主の7つの例祭について記されています。この例祭の中に神の救いの計画が示されています。今回は「過越しの祭り」と「初穂の祭り」から学びます。過越しの祭りの歴史的意味は、エジプトでの奴隷状態から解放され、イスラエル民族として独立したことを記念する祭りであり、霊的意味は、イエス様が過越しの犠牲の子羊となられたことによって、私たちを罪の奴隷から解放して下さったという事です。「初穂の祭り」は収穫の初穂を捧げる祭りです。これは安息日の翌日に行われ、復活の予告を表しています。この様に、例祭の中に「十字架」と「復活」が予告、予表されているのです。イエス様は、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。キリストにある私たちも同じように、空中再臨・携挙の時によみがえります。

Ⅲ.分った弟子たちは
 ペンテコステ、聖霊降臨の時に弟子たちは神の救いの計画を理解しました。弟子たちは与えらえた賜物に応じて主にお仕えしました。以前紹介した10の能力を表示します。①言語的能力②数学的能力③論理的能力④視覚空間的能力⑤音楽的能力⑥身体的能力⑦手先の器用さ⑧対人的能力⑨内面的能力⑩博物学的能力です。お一人おひとり、自分の能力と賜物を知り、イエス様と教会のために、それぞれの牧場で活用して頂きたいと思います。

『栄光の姿に変わる』マルコ9:1~8 [礼拝メッセージ]

1月14日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 イエス様は弟子の中からペテロ・ヤコブ・ヨハネの3人を選んでヘルモン山に登り、その御姿の変貌をお見せになった。白く光るその御姿は、非常に貴重なもので、真の神の御姿であった。自分達だけにその御姿を見せて下さった事で3人は特別感を感じ、イエス様への信仰的距離が縮まり真の神であると確信した。これは、イエス様の自己開示とも言える。自己開示とは、自分に関するプライベートな情報を明らかにする事で、適切な人間関係を築く上で欠かせない。親の在り方について書かれた著書にも、「親が子どもに対して自身の経験(失敗も成功も)や生い立ちなどを話し自己開示すると、子どもは正直に話してくれた親に対して愛や尊敬を抱く」と書かれている。米大統領だったリンカーンも、貧しい家庭で生まれ育った事を民衆に話し親近感を持たれた。
 弟子達に真の御姿をお見せになった時に、律法のモーセと預言者のエリヤがイエス様の「最後」について話し合っていたが、その3人の姿を見て、神の国の始まりを感じたペテロが仮庵を建てる「仮庵の祭り」を開催を提案した。なぜなら、「仮庵の祭り」とは、メシア王国が始まりを意味するからである。しかし、イエス様の十字架なくして再臨による完全な王国の完成はないので、この時の仮庵の祭りはあり得ない。死からの復活をしたモーセ、死なずに復活したエリヤ、その姿から死んでも復活の命が与えられる事をイエス様と共に表しており、「携挙」を連想することができる。
 旧約の時代、神様は律法や預言者を通して語られたが、この時はイエス様の公生涯やイエス様を通して語られた。今は、みことばを通してご聖霊が導いて下さる。この世の罪や影響を受けている私達の感覚や思考は不完全であり、みことばによって吟味される必要がある。日々のディボーションや牧場での交わりなどで歩みを軌道修正し、礼拝でイエス様を主としてお迎えし従っていく時、イエス様は私達と共にいてくださる。
 ペテロ、ヨハネ、ヤコブは、イエス様に躓き、訳が分からなくなってイエス様が救い主なのか疑い始めていたが、その栄光の御姿を見せて下さった事で、彼らの信仰が奮い立ち「自分達ではわからくてもイエス様についていけばいい」という確信が与えられた。この様に、私達も理解を超えたことがあっても、「主に従っていくとき主の栄光を見せて頂くことができる」と期待してイエス様に従っていきたい。

『ライフワークと聖書の労働観』創世記 1:28、2:15 [礼拝メッセージ]

1月7日、礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 成人の日に因んで労働について考えてみたい。2023年の10大ニュースの第一位はWBC侍ジャパン優勝であった。 第六位は闇バイト指示役ルフィー逮捕とある。そもそも、なぜ闇バイトが流行るのか? 
 聖書は初めに神が天と地を創造され、神はその世界の管理を人に委ねられたと教えている。労働は秩序をもって成長・発展を促す、本来、すばらしい特権・恵みであった。しかし、アダムが神に反逆し神から離れた結果、労働は生きるための手段に堕し、苦痛となり、働かずに楽ができればいいということになり、これが闇バイトのような犯罪に加担してでも簡単に高額を稼ぎたい動機となる。闇バイトはSNSで実行役が募集され、顔写真や免許証を撮られ逮捕されるまで奴隷状態となり、使い捨てられる。 クリスチャンはまずこれには引っかからないと思うが、ひっかかりやすいのはマルチ商法(ネットワークビジネス)ではないかと思う。初めに何十万かを払って会員になり、何人か紹介するだけですごく儲かると言われるが謳い文句は法律違反だらけである。 
 労働が空しくなったのは人の罪のためで、神との関係が回復したならば、労働は世界管理の業に参与する本来の役割を果たす。人は仕事を通して人格形成される。ヨセフもヤコブも理不尽なことも経験しながら、仕事をすることによって練られ成長した。正しい労働に就いてほしい。既に仕事についている人は、やり方を工夫したり、仕事関係者と良い関係を築いたり、仕事の満足感を高めてほしい。リタイヤされた方は知識や経験を他の人のために活かしてほしい。幸福度は自分のためよりも、他者のために何かした時の方が高い。
 では、どうやってライフワークを見つけるのか?言語的、数学的、論理的、視覚空間的、音楽的、身体的、手先の器用さ、対人的、内面的、博物学的、これらの10の能力の内、好き・得意を混ぜて考えると適職がわかるといわれる。
 後ろ向きな人、物事のマイナス面に注目するのは良くないイメージがあるが、それは物事の問題点を見、先手を打ちリスクを解消することができる欠かせない能力である。前向きな人が絶対的に優れているのではない。大切なのは、いろいろな性格の人がいて、各人の得意な分野を活用してあげること。 それは組織にとってもプラスになるという。神様は私達のありのままの性格・能力を受け入れ、愛してくださっている。安心して主のわざに励んでいきたい。