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『第一戒:神様だけを信じる幸い』出エジプト 20:1~3、ヨハネ 4:1~28 [礼拝メッセージ]

3月24日礼拝メッセージ(川端伝道師先生)より

 十戒は二枚の石の板に書き記されており、一戒から四戒までが、神様を愛することを教える戒めであり、五戒から十戒までが、人を愛することを教える戒めであるというふうに分かれている。マルコ12章でイエス様が一人の律法学者から、律法の中で最も大切な戒めはどれかと質問を受けた時、イエス様は、「第一の戒めは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。」そして「あなたの隣人を、自分自身のように愛しなさい。」と答えられた。
 神を愛することを教える戒めの一つ目は、「まことの神様以外の神があってはならない。」である。キリスト教は排他的だと批判を受けることがあるが、私たちの信仰は聖書の神様と愛の関係で結ばれている。一方多宗教は一方通行で、そこに人格的交わりはない。神様がエジプトから民を救い出された動機は、ただご自分の民への一方的な愛に突き動かされたからであった。
 また聖書は私たちと神様との関係を、結婚関係に例えている。第一戒の命令には、神様の誓約を持って契約を結んだ民と、健全な愛の関係を築いていくために与えられた大前提に第一戒の必然性をみる。
 今日のヨハネの箇所のイエス様のサマリアの女へのお言葉から、イエス様は彼女の本当の渇きは心の内側であることを見抜き、神様以外のもので心を満たそうとする彼女に、尽きることのないいのちの水、すなわち神の愛を教えて下さった。彼女は第一戒が命じる通りに、神様だけを拠り所として生きる者へと変えられたのである。
 私たちもそれぞれに心の渇きを覚える者であるが、「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがない。」このイエス様の言葉に信頼し、神様の愛に留まることで、私たちの心に泉がわく。これが、第一戒が私たちに命じている事柄である。目まぐるしい日常の中で、ふと心が疲れてしまうことがあるが、そんな私たちには、イエス様の愛に触れる場所、御言葉に憩い、養われる場所が必要である。そのためにも公の礼拝、各牧場での交わりが用いられるように。互いに声を掛け合い、祈り合い、励まし合いながら、この第一の戒めに留まり続ける私たちとならせて頂こう。


『見たことも、聞いたこともない(主に従う時)』Ⅰコリント2:9、使徒20:27~32 [礼拝メッセージ]

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3月17日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 みことばを信じ従って歩むとき不動産業を営む執事さんが語った証しのように人間の思い を遥かに超えた驚くばかりの恵みを主は与えてくださる。今年与えられたみことばに従うときどのような祝福が与えられるのか考えてゆきたい。
 私たちは何故みことばを学ぶのだろう。みことばによって聖書的な物の見方、考え方、世界観を身につける事は必要不可欠だ。聖書によって真実を見抜く目が養われ異端から自分と教会を守る力となるからだ。主が教えて下さった主の祈りがこの地上に現され天の御国に繋がってゆく。イエスさまが流した血潮は教会のためでもある。救われた者の集まりである主の体なる教会を建て上げるために私たちはどのように携わってゆくのみことばに従い歩んでゆこう。健全な教会形成と成長のために新年度から行う聖書の学びを通して主に愛される教会をみんなで建て上げこの地に御国を実現させてゆきたい。
 また教会の主要な役目としての宣教と弟子化、副次的な役割として社会的責任がある。世界的教会指導者のジョン・ストットは宣教を伝道と社会的責任の2つであると定義しこの2つが重要であると言っている。イエスさまも福音宣教と同時に弱さに苦しむ人々を癒すという愛の技を行われた。主要な役割を大切にしながら社会的責任として幼児教育やこども食堂を開き、孤食の子どもたちのニーズに対応してゆこうとしている。また高齢者を対象としたキラキラ会やゴールドプランの計画に主がどのように応えてくださるか検討し祈っている。そして次世代を育てることは教会に与えられた大切な使命だ。神さまから委ねられた大切な子どもたちを育んでいくために幼児園やプリスクールなど多岐にわたる次世代を育て地域に仕える教会として力を入れている。次世代を育てる働きをみんなで取り組んでゆくために礼拝の中で幼児園やプリスクールなどの証しを取り入れ共有してゆきたい。次世代を担う若者たちの意思を尊重しながらより良い繋がりができるように期待している。
 午後からの総会でビジョンを確認し、主がどのように応えてくださるか期待して待とう。
『目が見たことのないもの、耳が聞いたことがないもの、人の心に思い浮かんだことのないものを、神は,神を愛する者たちに備えてくださった。』   Ⅰコリント2:9
 
 

『私たちが追い出せなかったのは、なぜですか』 [礼拝メッセージ]

3月3日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 この息子の口がきけない、引きつけを起こすといった状態は悪霊によるものであったが、「幼い時から」と書かれていることから、親に原因があったと考えられる。例えば、オカルトや占いなどと深く関わると、悪霊の影響を受けやすくなってしまう。悪霊に侵入口を与えないように、オカルトや占いには関わらないことが重要である。
 悪霊を追い出してもらおうと、イエスに「おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」と願う父親に対し、イエスは「できるなら、と言うのですか。」と問いかけるが、これは父親から信仰を引き出そうとした言葉である。父親はすぐに「信じます。不信仰な私をお助けください。」と答え、息子は癒される。ここからわかることは、信仰とは100%信じきることだけを意味するのではなく、たとえ不信仰な部分があったとしても、神は恵みを与えてくださるお方だということだ。Ⅰコリント12:3にあるように、私たちは自分の力で信じたのではなく、聖霊によって信じることができるようにしていただいたのである。同じように、祈りが応えられるのも、神からの賜物(プレゼント)なのだ。
 では、弟子たちが祈ったにも関わらず、この息子から悪霊が追い出されなかったのは何故だろう?理由として、弟子たちに欠けていたものが2つ考えられる。ひとつめは「神への信頼」の欠如であり、弟子たちは過去に悪霊を追い出した体験から、神に頼ることを忘れ、人間の力で追い出そうとしていたのではないかということ。これと対照的なのが、息子の父親の態度である。「不信仰な私をお助けください」と、すべてを主に委ねて頼った。聖霊の力なしに霊的な働きをすることはできず、主に頼ることなしに行っても、虚しい結果となる。礼拝や牧場も含め、私たちも自分の力に頼ろうとしていることはないか、振り返ってみたい。
 ふたつめは「この父親と息子に対する愛」の欠如である。この時の弟子たちの関心事は「自分たちの中で誰が一番偉いか」だったため、2人への愛よりも、自分たちの力を表すことが目的になっていたのではないだろうか。
 神にきかれやすい祈りとは、「神、人、自分に対する3つの愛に基づいた祈り」である。例えば、結婚のためであれば、自分の求める相手の条件だけを祈るのではなく、家庭を通して神の栄光を現せるように。経済的なことであれば、自分の必要のためだけでなく、神と人にもっと仕えることができるように。このような、3つの愛に基づいて何かを求める祈りであれば、神は喜んで応えてくださるだろう。自分の祈りの姿勢を振り返ってみたい。