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『わたしは世の光です』 ヨハネ8:12 [礼拝メッセージ]

11月26日礼拝メッセージ(川端伝道師先生)より

 今日のメッセージの箇所の御言葉は、「わたしは世の光です。わたしに従うものは、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」というものだ。
 旧約聖書では一番初めに「神は仰せられた。『光あれ』。すると光があった。」と記している。この世界にとって無くてはならないもの、全ての命にとって根源的に必要なものが光なのだ。
 また詩編36:9には「いのちの泉はあなたとともにあり、あなたの光のうちに、私たちは光を見るからです」とあり、これは私たち人間は太陽の光だけではなく、神様から来るまことの光こそ必要で、そのうちにいかされているのだと伝えている。
 出エジプト記には、神様がイスラエルの民をエジプトから脱出させるため、エジプト全土を真っ暗闇にされたとある。今の時代の夜とは違い、灯火もない真の闇はどれ程恐ろしかったことだろう。
 
 イエス様はご自分のことを「世の光」と言われたが、その光には二つの側面がある。姦淫の罪を犯した女をイエス様の前に連れて来た律法学者やパリサイ人は、「あなたはこの罪人をどのように扱いますか」と判断を迫り、彼らにイエス様はこう言った。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」。
 この時示されたイエス様の光が「義の光」だ。それはその場にいる全ての人の心にある罪を照らし出し、一人、また一人と去っていった。「正義の使者」として女を裁こうとしていた彼らは、イエス様の義の光に照らされて、皆その場にいられなくなったのだ。
 もう一つの側面はイエス様の「愛の光」である。彼は女に対して、「わたしもあなたに裁きを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」と、罪の赦しを宣言した。この光を見ることが出来たのはこの女性だけ、先に去っていった律法学者やパリサイ人は「義の光」は見ても、「愛の光」を見ることができなかった。私たちもこの女性のように、自分自身の心を「義の光」に照らされ、たとえ自分の罪がさらけだされようともそこに留まり、イエス様の温かな「愛の光」に照らし出される必要がある。へりくだりそこに留まることで、赦しの恵みの中に生きる者になれる。

 またイエス様は私たちに対して、「あなたがたは世の光だ」と仰られた。イエス様を信じ受け入れた者はすでに光を心に宿しているから、その光を輝かせなさい、と。では、世の光として生きるとはどういうことなのか。それは決して大きなことを成し遂げたり、その人自身がスポットライトを浴びることではなく、小さな平和に仕えること。周囲の人に温かい光をかざすこと。
 決して忘れてはいけないことは、「私たちは暗闇に遣わされている」ということだ。周りの環境や人に対して愚痴や文句を言うのではなく、それを受け入れ、その暗闇の中で静かな光を灯す街灯になること。イエス様は私たちに期待のまなざしを向けておられる、それぞれ遣わされている暗がりにおいて、小さくても確かな光を灯すことができるように。