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『新約教会の回復』使徒2:42~47 [礼拝メッセージ]

11月19日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

Ⅰ.食事と共有
 イエス様は弟子たちや罪人、世の中の底辺に生きる人々との食事を大切にされた。コミュニケーションの場としても重要である食。実は食べる環境、雰囲気が味覚に大きく影響すると言われている。誰と食べるかが特に重要。初代教会の人々は見えないイエス様を中心に心を一つにして食事を共にし、神を賛美した。初代教会の祝福の印である家の教会の食事が豊かに用いられますように。
 経験の賜物の共有。過去に辛い経験を持つ人が、今同じような事で苦しんでいる人と分かち合いをすることで苦しむ人の慰めになることがある。また、乗り越えることができたことを思い返し、主の恵みを証する場となる可能性もある。あるいはこんな賜物共有の仕方もある。Mさんが音大生の友達とクリスマスフェスティバルに特別出演してくれることになった。日頃の成果を発表したいという思いとクリスマスフェスティバルを盛り上げてもらえると、お互いにwinwinの関係になる。
Ⅱ.使徒の働きに見る家の教会
 使徒の働きには、初代教会は家から始まったことが描かれている。8章にはクリスチャンを迫害していたパウロは家から家を巡って男も女も引きずり出して牢に入れたとあり、12章には救い出されたペテロがその不思議な出来事を知らせてほしいとマリアの家に行ったとある。20章「益になることは公衆の前でも家々でも余すことなくあなた方に伝え、また教えてきました。」パウロがエペソの長老たちへのお別れメッセージとしてのくだりである。   
 このように、多くは目立つことなく家庭といういくつもの小さな集まりが存在し、それらを拠点として主イエスの福音宣教が確実に行われていった。そしてこの家の教会がどんどん増殖して信じる人が多く与えられて、ローマ帝国中に広まっていき、国教化、国の宗教にまでなった。ローマ帝国をひっくり返した、その原動力は家の教会。令和のこの時代、教会が初代教会の霊的な力を回復するためにぜひ、初代教会の姿に戻りたいと切願している。
Ⅲ.牧場活性化の秘訣
「俺は信じへん」と言っていたOさん。その奥さまや牧場メンバーの熱心な祈りとGODタイミングで受洗へと導かれていった。その後、神さまの存在はOさんの生活や考え方まで変えていった。コントロールできなかったお酒の飲み方が変えられたばかりか、牧者の依頼も引き受けられた。「あなたは高価で貴い、私はあなたを愛している」や、主の恵みは弱さの内に現れる、とみことばを実感として受け止め、信仰をもって生活を選び取ることが出来るようになったという。さらにOさんは牧者を通してメンバーの人たちの痛みを共有することができるようになって、信仰と人格が広げられた。それぞれの牧場で3つのポイント、(祈りの成就による神体験、VIPの存在と救い、メンバーの成長、変化)こうしたことの一つでも、ぜひ体験してほしいと思う。

『愛は寛容、愛は親切②』Ⅰコリント13:4 [礼拝メッセージ]

11月12日(成長感謝祝福式)礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

Ⅰ.愛は寛容
『愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。』
(Ⅰコリント13:4)
 今日は「成長感謝祝福式」ですので、それにちなんだメッセージをさせていただきます。
 コリント人への手紙第一13章13節には、「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」とあります。ではなぜ、愛が一番すぐれていると言われているのでしょうか。同じ13章7節で「愛はすべてを信じ、すべてを望み」と説かれている様に、愛は信仰と希望の原点となっているからです。また、愛は神の本質そのものだからです。私たちは天国に於いて、神と完全な交わりを持つことになります。その時には信仰も希望も必要ありません。神様との完全な愛の交わりだけが残ります。この神の愛は、「行いによって」ではなく、「恵みと信仰」によってのみ無条件で得られるのです。行いは自分が愛されていると分った時に生まれてきます。愛は寛容と親切とをもって相手に伝わって行きます。「寛容」は許しの愛、「親切」は相手のニーズに応え、満たす愛です。イエス様は、自分の弱さを知らずに失敗したペテロや、イエス様を本当のメシヤと知らずに信者を迫害したパウロを許されました。寛容は相手を許す愛です。
Ⅱ.愛は親切
 親切は相手のニーズを満たすことにありますが、その一つの「褒めること」を考えてみましょう。子どもが草取りのお手伝いをしてくれた時、「お手伝いをしてくれていい子だね~」と人格を褒めたお母さんと、「お手伝いをしてくれてありがとう~」と行動を褒めたお母さんがいました。前者の子は、褒められることを期待して行動する様になり、後者の子は、自分の行いが他の人を喜ばせることを知るようになります。後者の子は自分に自信が生まれ、自分を好きになります。自分を好きになる人は、他の人に優しく接することが出来るようになります。褒めることの3ポイント①「途中で」②「こまめに」③「事実を」、を思い出して活用してみましょう。許しの愛である寛容と、相手のニーズを満たす親切の愛の実践にチャレンジする者とさせて頂きましょう。

『まことのぶどうの木』ヨハネ15:1-5 [礼拝メッセージ]

10月29日礼拝メッセージ(川端伝道師先生)より

 ヨハネの福音書の特徴の一つとして、イエス様の自己紹介である自己啓示7つ収められているが、その一つが「わたしは、まことのぶどうの木」だ。ぶどうの木の前に、「まことの」とあり、「正真正銘の」と強調されている。それは、旧約の時代神様が願うような実を結ばなかったイスラエルの民に代って、世界を祝福する為に地に植えられた「まことのぶどうの木」がイエス様ご自身だと啓示されている。
 ぶどうの木の幹であるイエス様、枝である私達。枝は木が無ければ枯れてしまい、幹も枝が無ければ実を結べない。イエス様と私達は同じ1本の木であって、一つの命を共有している関係で、イエス様に繋がって生きる事はキリストの命に結ばれて生きる事。その証明として、「私はぶどうのこの様なものだ」「あなたがたは枝のようなものだ」でなく、「私はぶどうの木で、あなたがたは枝です」。と言い切っておられる。イエス様は私達の事を「自分の事の様に」ではなく「自分の事として」考えておられる。それが、命を共有する関係である。
 幹であるイエス様と繋がる枝である私達には、豊かな実を結ぶと約束して下さったが、それはどんな実なのか?パウロがガラテヤ5:22で「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」と記している。これらの共通点は、自分と誰かの間で結ばれ自分の人生に残り続ける実ではなく、他の誰かの人生で結ばれていく実だという事だ。これこそ、イエス様が私達という枝を通して結ぶ事を願っておられる“実”である。そして、イエス様も同様に私達に多くに実を残して下さった。十字架によって示された愛が、イエス様と出会った数えきれない人々の人生の中で、その愛の実は、今もなお実り続けている。私達のとても小さな働きも、どんなに虚しく思えることも、イエス様と繋がっている限り、必ずどこかで実を結ぶ。これが、私達が枝として、まことのぶどうの木であるイエス様に繋がって生きる幸いなのである。何でもない自分が用いられる、たとえどんなに不器用でも必ず実が結ばれるので、主の御名の為になされる様々な働きに積極的に参与してく私達となりたい。

『四千人の給食』 マルコ 8:1~10

10月22日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 イエス様が再びデカポリス地方に行かれた時、男だけで4000人もの人々が集まり三日間も食事もせず、イエス様の話に聞き入っていた。なぜ群衆はイエス様のもとに来たのか?それは以前、多くの悪霊につかれ、墓場で昼夜叫び続け、自分の体を傷つけ暴れ、誰にもどうすることもできなかった人を、イエス様が悪霊を追い出し癒されたからである。本人は正気に返り、家族も癒され回復した。人々はそれを目撃し、また本人の証により言い広められていた。そのイエス様が今度は耳が聞こえず話すことのできない人を癒されたと聞いたので、大勢の群衆が集まって来たのである。
 この三日間ろくに食べていない群衆をイエス様はかわいそうに思われた。イエス様は私達の霊的必要だけでなく、物質的・肉体的必要も心配してくださる。この時期のイエス様の関心事は弟子達を訓練し成長させることである。それでイエス様は心配事を口にし、「5000人を満腹にされたあなたですから大丈夫ですよね」と弟子達の信仰を引出したかったのである。それなのに弟子達はあの5000人の給食の奇跡の体験を活かすことができなかった。5000人の給食はイエス様の奇跡の中で四福音書すべてに記されている唯一のもので、それほど弟子達にとって、自らの手で群衆に配り、感謝され感動した奇跡なのに、弟子達は見事な霊的記憶喪失症になっていたのである。イエス様は4000人を7つのパンで満腹にされた。
 イエス様はどんなにがっかりされたことか。しかし、この弟子達を私達は笑うことができない。私達も困難や試練を恵みにより乗り越えてきたのに、また同様な困難・試練に遭う時、あたふたとしてしまう。私にとっては葬儀がそれである。葬儀はいつあるかわからず、メッセージを考え、失礼がないよう配慮し、思ってもみないリクエストにも応える。でも様々な経験から「主が何とかしてくださる」という信仰が与えられつつある。
 弟子達は「こんな人里離れたところで~」と言ったが、私達もそれを言ってもよい。ただ、「でも、5000人を満たしたあなたなら何とかしてくださるでしょう」と返してほしい。私達は物事を悲観的に捉える傾向がある。しかし、イエス様にあって「でも」と前向きなことばで思考を変え、感謝し、プラスにひっくり返していきたい。