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『例祭に示された神の救いの計画③』 レビ23:24,27,34,42 [礼拝メッセージ]

2月11日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 旧約聖書には、神様の救いの計画が7つの例祭として示されている。4つの春の祭りは「イエス様の初臨」の預言で、3つの秋の祭りはこれから起こる「再臨」の預言である。秋の祭りは以下の3つである。
Ⅰ ラッパ(角笛)の祭り(23:24)
イエス様の「空中再臨」を示す。Iテサロニケ4:16・17、Ⅰコリント15:52には「イエス様がラッパの音と共に空中再臨され、クリスチャンは復活の体をいただいて空中に上げられ、イエス様に会う(携挙)」と書かれている。イエス様は「(神様の目から見て状況が整えば)すぐ来る」と言われている。いつ来られてもよいように、備え(=福音を信じ)よう。
Ⅱ 贖罪の日(23:27)
厳粛な罪の悔い改めの日であり、これは「大患難時代」を表す。天変地異、戦争、迫害が起こり、反キリストのリーダーが支配する。この時代に人々が悔い改めて信仰をもち、イスラエルの神殿が建て直される。
Ⅲ 仮庵の祭り(23:34)
出エジプトの恵みと苦難を偲ぶための祭りで、「イエス様の地上再臨とイエス様が治めるメシヤ的王国(ゼカリヤ14:16)」を表す。ヨハネの黙示録には聖書の預言が時系列でまとめて書かれているが、「1000年のメシヤ的王国(黙:20:6)のあとにサタンを滅ぼし、完璧な世界である新天新地を作る(黙21・22章)」と書かれている。

 イエス様はいつ来られるかわからない。その備えとして、イエス様を信じ、与える生き方をしよう。『高齢者にはきょうよう(今日の用事)ときょういく(今日行く場所)が必要』と言われる。人は責任と役割を果たすことで幸福感が得られる。本日、牧者の女性が牧場で受けた恵みを証しした。恵みを受けた人は他の人を助けたいと思うだろう。ある女性は自分の得意料理を作り、体調がよくない人に差し入れをしている。自分の賜物(才能)を他の人のために使い、与える恵みを感じてほしい。

『例祭に示された神の救いの計画➁』 レビ23:1、2 [礼拝メッセージ]

2月4日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 イエス様の十字架の死を弟子たちはとても理解できなかった。しかし、旧約聖書レビ記23章にはイエス様の救いの計画が記されている。それはユダヤ人たちが旧約の頃から守っている7つの祭りであり、それぞれ霊的な意味を持っている。今回は春の祭りを紹介する。
 「過越の祭り」の由来は3500年前のエジプトにある。当時のユダヤの民は奴隷として苦しんでいたが、自分たちは選ばれた民であり、必ず主は自分たちを解放してくださると信じていた。主はそのためにモーセを遣わし民たちを導いた。その中でエジプトに最後にもたらした災いは、エジプト中の初子の命を奪うというもの。ユダヤの民は子羊の血をそれぞれの家の門柱と鴨居に塗った。そのおかげで主の裁きはその家を過ぎ越した。ここからこの日を「過越の祭り」としてユダヤの民たちは祝うようになったのだ。
 バプテスマのヨハネはイエス様のことを「神の子羊」と呼んだが、イエス様もまたご自分が救いの過ぎ越しの子羊として十字架にかけられることを知っていた。
次に「初穂の祭り」について、これはイエス様の復活を意味する。
イエス様は甦った「初穂」、即ち一番最初に復活された。ではあとの者たちは?再臨の時のキリスト者たちでイエス様の後に続く。
 「種なしパンの祭り」というのは過越の祭りの後に行われる。エジプトを脱出したユダヤの民たちは、パン種を入れてそれを焼く余裕もなかった。彼らが食べたのは種なしパン、けっしてそれを忘れるなという意味がある。しかしイエス様が言われた「パン種」には別の意味がある。「パリサイ人のパン種」とは律法主義のことであり、「ヘロデ党のパン種」とは政治的な権力のことだ。イエス様の弟子たちでさえ影響を受け、その権力を得ようとしていたのだ。そんな彼らにイエス様は「偉くなりたい者は皆に仕えなさい」と言われた。私たちにもパン種はないだろうか?お金や趣味、自分のやりたい事を優先していないだろうか?そんな私たちにイエス様は「神の国と神の義をまず求めなさい」と語って下さっている。
 最後に「ペンテコステの祭り」を紹介する。これは新約の時代ではイエス様の復活から7回目の安息日。旧約ではこの日、「十戒」が与えられたとされている。エレミヤ31章には「わたしはそれを彼らの心に書き記す」とある。旧約の律法ではない新しい時代、新しい恵みがやって来る。ペンテコステの日、ユダヤの民たちは「ルツ記」を読むように言われるのだが、これはユダヤ人ボアズと異邦人ルツが結ばれるという内容だ。ペンテコステは主にあって民族は関係なく一つとされる祭りなのだ。
 ここであるお母さんの証しについて語ろう。彼女は我が子へ教える時に、上から押し付けるのではなく子供たちに考えさせ、彼らに選ばせるようにしている。また、弱い立場の人に対する配慮についてもそうだ。今学校では能登の被災者に対する募金を集めている。子供たちにお年玉を使うことを提案し、幾ら寄付をするのか、これだけあれば何が買えるかを考えさせ、自らで金額を選ばせる。この選択を神様が喜んで下さると伝えることで、彼らに信仰は継承されていくことだろう。

 

十戒:愛の言葉 出エジプト19:1~8 [礼拝メッセージ]

1月28日礼拝メッセージ(川端伝道師先生)より

Ⅰ.言葉の捉え直し(十戒・律法)
 「十戒」という言葉、なんだか禁止事項が並べられて厳格な印象をもつ人もいるのでは?しかし、原文の聖書には十戒を指すヘブル語は「十の言葉」と表現されている。戒めではなく、ご自分の民に対する神さまの愛の言葉であることをまず理解したい。また「律法」という言葉にも、「法律」のような冷淡なイメージを持つかもしれない。ところが、原文で用いられているヘブル語の「トーラー」という言葉は「教え」や「指針」といったニュアンスでつづられている。
「我が子よ、父の訓戒に聞き従え。母の教えを捨ててはならない」箴言1:8
 母親が、我が子を想い優しく諭すように、私たちのことを心配しておられる神さまが、その成長と安全を願い語ってくださった教え、それが十戒である。

Ⅱ.十戒の前提
 神さまの一方的な御業でイスラエルをエジプトから導き出されてきたのは、彼らが神さまと契約を結ぶためだった。契約とは神の民とされ、神と人々との間に立ち、他の人の救いのために執り成すという務めが与えられるためであった。神の救いの計画を共に担う民として、彼らを聖別し招くことこそが、出エジプトの目的であったのだ。ただし、神さまは決して強制的に従えるのではなく、彼ら自身の意思で信仰を言い表すことが十戒を与える前提であった。「従います」と信仰告白で応答した民に対し、神の家族として生きるための道標を与えた、それがまさしく十戒なのである。

Ⅲ.福音の届け方
 出エジプトの出来事の後、40年の荒野の旅を経て約束の地カナンへの入国を目前に控えたとき、指導者モーセの告別説教の相手は出エジプトを直接経験していない荒野育ちの若者たちだった。モーセは自分たちが神さまから聞かされた通りに、次世代の民にも語った。救いの歴史の回想、神さまとの特別な契約関係、「神の掟に従うことが、どれほど幸せな事なのか」を強調して十戒の言葉を伝えたのだった。また、神さまがなさった通りモーセも“選択の自由”を与えた。「どうか、いのちを選び取ってくれ!」という励ましの言葉を添えて。
 私たちが神さまに従うことを冷たく、苦しい北風のようだ、と感じるとき、もはや福音ではなくなっている可能性がある。福音を福音として受け取ることがクリスチャンにとって何よりも大切なことではないだろうか。神さまからの愛の言葉に自らの意思で応答する私たちの姿を、神さまは待っておられる。