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「私もOK,あなたもOK」 マルコ7:14~23 [礼拝メッセージ]

9月17日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 イエス様は,「人を汚すのは,食物ではなく人の内から出るもの(罪の性質)である」と言われ,具体的に悪い行為をあげた。さらに,それを実行しなくても,心で思うことも罪だと言われた。人は自分の力で罪を解決できない。私たちの罪の処罰の代わりに身代わりになってくださった,イエス様の十字架のあがないを受け取るしかない。

 対人関係において自己受容できる人(私はOK)は,他の人を受容できる(あなたもOK)。人は自分をどう理解し,受け入れているかが大切で,健全なセルイメージが豊かな人生のカギだ。
この世では人は行いで評価されるが,聖書(エペソ2:8~9)には「信仰によって救われた,行いによるのではない」と書かれている。創造主なる神様は,能力や態度によってではなく,私たち自身を愛してくださっている。私たちをこの世界に必要な存在として作ってくださったが,人はあら探しや争いをしている。まことの神様は,愛するものを傷つけること(罪)に怒り悲しみ,罪の解決方法が御子イエス様の十字架だ。この十字架の恵み,そのままの私たちをOKと言ってくださることがわかれば,卑屈さや高慢さがなくなり,自分を受け入れ,隣人も受け入れられるようになる。

 人をしばるのは内側から出てくる考えで,セルフイメージを変えれば,人は変わることができる。人は,経験と努力で今より成長できる。自分の成長を信じれば,失敗しても再チャレンジし,他人の成功をがんばりのエネルギーにできる。
 日本の若者の自己肯定感が低いのは,「他人との比較による自己肯定感」に基づくからだ。創造主である神様が「一人ひとりを価値ある存在として愛している」ことがわかると,自己肯定感が変わってくる。



『口伝律法と真実の教え』 マルコ7:1~13 [礼拝メッセージ]

9月10日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 パリサイ人や律法学者たちは、イエス様の弟子たちが食事の際に「手を洗っていない、清めの儀式をまもっていない」と非難した。しかし、このことはモーセの律法によるものではなく、昔の人間の作った言い伝え、「口伝律法」による掟である。彼らは旧約聖書に書かれているモーセの律法ではなくこの口伝律法を守るように強いて、当時の人々をがんじがらめに縛っていた。
 イエス様は決して律法を守っていないわけではない、むしろモーセの教えを遵守していた。パリサイ人や律法学者たちは人々に厳しい口伝律法を押しつけ、その実抜け道を作り利益を得ている、そんな彼らを「口先ではわたしを敬うがその心はわたしから遠くはなれている」と厳しく糾弾した。
ここで、私たちはどうだろうかと考えさせられる。
 「学力の経済学」という本によると、噓をつかない、人に親切にする、ルールを守る、勉強をするなど、しつけを受けた子どもは将来年収が上がるとあった。そして生きていくためには学力よりも「非認知能力」こそが重要だと書かれている。自制心・忍耐力・意欲などは学校で教えてくれない。では家庭以外のどこで教えるのか?教会だ。
 幼稚科・Jキッズ・中高科ではディボーションを大切にしている。私たちの体は食物から栄養を取り、心の栄養はみことばから摂取する。そして分かち合いをすることにより、喜び合い励まし合い、愛し合い成長できる。
 しかし、子どもたちを導く羊飼いとしての働き手が不足している。たとえ家庭や学校で辛いことがあっても、聖書の愛を通し一緒に考え伝える、そんな働き手としてどうか応答していただきたい。
 さらに牧場も「原点回帰・ルネサンス」が必要だ。コロナの影響により形を変えられることを余儀なくされた。今こそ本来の牧場の姿に戻そう。牧者カンファレンスでは招待キリスト教会のC夫妻の証をされたがそれによると、牧場のメンバー皆で協力し合い、VIPのタイ人ご家族のために、その父親の誕生日のお祝いをした。ある人は送迎、ある人は会場の飾り付け、ある人は料理を用意するなど。ここまで徹底するのは難しいが私たちも、このCさんのスピリットを見習いたいものである。


『湖上の訓練②』マルコ6:45~52 [礼拝メッセージ]

9月3日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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Ⅰ.訓練課題は、忍耐と神の時
 「それからすぐにイエスは弟子たちをむりやり船に乗り込ませ…」とある。なぜ「むりやり」なのか。5千人に給食を配り、感謝されたり崇められると自分の力と勘違いして高慢になってしまう。そうならないよう「むりやり」民衆と切り離したということである。
 その後、弟子たちを乗せた船は途中向かい風に会い、必死のパッチで漕ぎ続けること12時間!もう限界という時、イエス様は湖上を歩いて彼らの所に助けに来られた。イエス様を幽霊だと見間違い金切声をあげた弟子たちに『しっかりしなさい、わたしだ、恐れることはない』と言われたイエス様。「わたしだ」には特別な意味がある。
 かつてモーセがホレブの山で真の神さまに出会った時「私の名はエゴエイミ・“ある”というものである」と言われたこの言葉なのだ。旧約の神さまと新約のイエス様は一体であることが証明されている。
「そして彼らのいる船に乗り込まれると風はやんだ。弟子たちは心の中で非常に驚いた。」
真の神さまであるイエス様が来てくださる時、長い間祈っても努力しても道が開かれなかったことが、叶えられ実現する。それが神の時である。 

Ⅱ.ペテロが用いられた理由⇒わたしを愛しているから
 ペテロにはイエス様への熱愛のゆえの微笑ましいエピソードが数多くある。水の上を歩いてイエス様の所へ行くが、怖くなって溺れて叱られたこと、足だけじゃなく、手も頭も洗ってください、とはしゃいだこと。命欲しさにイエス様との関係を三度否定したが悔い改め、イエス様の復活の時、三度愛を告白したペテロ。主を愛してやまないペテロに対し、神さまはその祈りに応え彼を助け、彼を高く上げようと約束してくださった。本当に人を動かすのは愛。主イエス様は私たち一人ひとりに問われる。「あなたはわたしを愛しますか?」私たちは、答えたい。「私があなたを愛していることはあなたがご存知です」と。それができるならば、イエス様は私たちを豊かに用いてくださる。

Ⅲ.弟子たちの特質を用いられるイエス様
 ペテロの性格を見ているうちにペテロは今でいうADHDだと思う。ADHDの人の特徴はその活動性だ。一つの事に囚われずに次々に新しいものにチャレンジできる。ペンテコステの日にご聖霊が与えられたとき、そのプラスの面が大いに発揮されることとなり、ここから本格的な異邦人伝導が幕を開けた。ヘロデ王によって処刑されようとしていた時、以前のペテロなら恐ろしくて一睡もできないであろうが、ペテロは平安の内にいて二人の兵士の間で眠っていた、とある。イエス様は不安定なシモンの中に岩=ペテロになる可能性をご覧になってペテロをスカウトしたのだ。イエス様は私たちよりも私たち自身を本当によくご存知だ。ペテロを用いてくださる主は私たちもイエス様への愛さへあるならば弱点と思える特質でさえプラスに変えて用いることのできる方である、このことを覚えたいと思う。

『契約の虹』 創世記9:8~13 [礼拝メッセージ]

8月27日礼拝メッセージ(川端伝道師先生)より
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Ⅰ.心を痛める神様
『主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を創ったことを悔やみ、心を痛められた。』(創世記6:5~6)
 ノアの箱舟の物語は、絵本や映画などでも馴染み深い物語ですが、同時にかなり誤解されやすい物語の一つでもあると思います。それは人類の堕落に対する神様の厳しい裁き、と言う側面だけが強調されやすいという事です。聖書には『主は⋯心を痛められた。』とあります様に、義なる故に罪を裁くお方であると同時に、愛なる故に悩み、苦しみ、葛藤され、心を痛められるお方として描かれています。罪人である私たち人間は罪の深刻さに無頓着であり、まして神様の心の痛みには鈍感ですが、私たち以上に罪の痛みを知っておられる、神様の人格的な姿をまず覚えたいと思います。

Ⅱ.陸地の上に立つ箱舟
『あなたは自分のために、ゴフェルの木で箱舟を造りなさい。』(創世記6:14)
 聖書に「船」が出てくる時に、私たちはそこに「教会」の姿を重ねることが許されています。陸地に建造される箱舟は、陸地の常識とはかけ離れた異質な共同体、すなわち教会を表していると言えます。異質と言っても、この世から完全に浮いているという事ではなく、しかし、実情はこの世とは全く異なっています。それは、罪に支配されているこの世と、イエス様が支配されている教会の違いと言えます。教会は罪に支配された地上の上に立つ箱舟に例えることが出来ます。箱舟に与えられた本当の使命、すなわち、一人でも多くの方をこの船にお招きすると言う宣教の働きのために、この地に立てられた船の建設に励んで参りたいと思います。

Ⅲ.契約の虹
『わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それが、わたしと地との間の契約のしるしである。』(創世記9:13)
 洪水ののち、神様は契約のしるしとして空に虹をかけて下さいました。神様はその愛と義を巡る激しい葛藤の中で、人間を罪から救うための方針を転換されました。それが洪水ではなく「虹」なのです。虹は原文では「弓」と言う語彙が用いられており、『私は、雲と雲の間に弓を置く。』と言う意味になります。その弓の形状から矢の向きは天に向けられている事が分ります。神はご自身の御子、イエス様が十字架の上でその身を滅ぼすことによって人間をその罪から救うと言う計画に方針転換されたのです。神の一方的な愛のゆえに、罪人に過ぎない私たちを再び受け入れようと、愛と義の葛藤を乗り越えて下さって、虹と言う形で神様の愛のしるしを示されたのです。私たちも、この愛に突き動かされて、神様を愛する道を日々、選び取っていく者とさせて頂きましょう。