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『栄光の姿に変わる』マルコ9:1~8 [礼拝メッセージ]

1月14日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 イエス様は弟子の中からペテロ・ヤコブ・ヨハネの3人を選んでヘルモン山に登り、その御姿の変貌をお見せになった。白く光るその御姿は、非常に貴重なもので、真の神の御姿であった。自分達だけにその御姿を見せて下さった事で3人は特別感を感じ、イエス様への信仰的距離が縮まり真の神であると確信した。これは、イエス様の自己開示とも言える。自己開示とは、自分に関するプライベートな情報を明らかにする事で、適切な人間関係を築く上で欠かせない。親の在り方について書かれた著書にも、「親が子どもに対して自身の経験(失敗も成功も)や生い立ちなどを話し自己開示すると、子どもは正直に話してくれた親に対して愛や尊敬を抱く」と書かれている。米大統領だったリンカーンも、貧しい家庭で生まれ育った事を民衆に話し親近感を持たれた。
 弟子達に真の御姿をお見せになった時に、律法のモーセと預言者のエリヤがイエス様の「最後」について話し合っていたが、その3人の姿を見て、神の国の始まりを感じたペテロが仮庵を建てる「仮庵の祭り」を開催を提案した。なぜなら、「仮庵の祭り」とは、メシア王国が始まりを意味するからである。しかし、イエス様の十字架なくして再臨による完全な王国の完成はないので、この時の仮庵の祭りはあり得ない。死からの復活をしたモーセ、死なずに復活したエリヤ、その姿から死んでも復活の命が与えられる事をイエス様と共に表しており、「携挙」を連想することができる。
 旧約の時代、神様は律法や預言者を通して語られたが、この時はイエス様の公生涯やイエス様を通して語られた。今は、みことばを通してご聖霊が導いて下さる。この世の罪や影響を受けている私達の感覚や思考は不完全であり、みことばによって吟味される必要がある。日々のディボーションや牧場での交わりなどで歩みを軌道修正し、礼拝でイエス様を主としてお迎えし従っていく時、イエス様は私達と共にいてくださる。
 ペテロ、ヨハネ、ヤコブは、イエス様に躓き、訳が分からなくなってイエス様が救い主なのか疑い始めていたが、その栄光の御姿を見せて下さった事で、彼らの信仰が奮い立ち「自分達ではわからくてもイエス様についていけばいい」という確信が与えられた。この様に、私達も理解を超えたことがあっても、「主に従っていくとき主の栄光を見せて頂くことができる」と期待してイエス様に従っていきたい。