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『シメオン(黒田官兵衛)の喜び』ルカ2:25~32 [礼拝メッセージ]

12月24日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 シメオンの洗礼名を貰ったキリシタン大名の黒田官兵衛が信仰を持ったのは、キリシタン大名高山右近と出会い、その導きによって信仰告白したのであった。官兵衛の信仰を決定的にしたのは、一年にも及ぶ有岡城幽閉を経験したことであった。城主荒木村重はもう一度信長側につくように説得に来た官兵衛を牢獄に閉じ込めた。いつまでも帰ってこない官兵衛を信長は裏切りととり、官兵衛の息子長政を殺せと命じた。官兵衛は神を信じているのに、なぜこんなことになるのかと、不安と不信仰の思いに苛まれた。司馬遼太郎の播磨灘物語には、苦しみの中牢獄の格子越しに陽ざしを受けて笑うように咲いている藤の花に、官兵衛は生きる力を貰ったと書いてある。後に秀吉に軍師として取り立てられた。しかも主の山に備えあり。息子長政は生きていた。官兵衛はこの恵みを与えてくださった神様に生涯お仕えしようと思った。有岡城幽閉事件は官兵衛の主君姫路藩主小寺政職の裏切りによる結果であったが、帰ってきた官兵衛は小寺を殺すことなく赦したのであった。戦国時代にはありえないことであった。以後、人は殺すよりも使え。即ち敵を赦し用いることが、彼の基本的な生き方となった。バテレン追放令を出した秀吉の圧力を受けながらも信仰を守り通した。
 今日の箇所のシメオンはイエス様と出会って人生の未練は吹き飛んだ。私たちも人生を台無しにしてしまうような罪の記憶を、イエス様の十字架で全部消していただいた。のちは神様の言葉に生かされて生きる私たちの人生を神様は喜んで、よくやった、良い忠実なしもべだと迎え入れてくださる。これは、本当にいい人生だったという終わり方ではないだろうか。シメオンも黒田官兵衛も共にそのような生涯だった。人生の終わりだけでなく一年の歩みに悔いの残ることがあれば、責任を持ってくださるイエス様にお委ねする。今すべきことは、イエス様にあってこの一年の守りを感謝すること。与えられた豊かな恵みを数えながら、イエス様に感謝する。そうして与えられたこの一年を安らかに終えたいと思う。




『平和の架け橋』ピリピ2:6~8 [礼拝メッセージ]

12月17日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 今日、クリスマス礼拝Ⅲが行われた。その中で幼児園の子ども達が元気いっぱい可愛い賛美を聴かせてくれた。午後からはクリスマス家の教会コンサートが行われ、大阪音大チームの素晴らしいコンサートなどがあり、イエスさまの誕生をみんなで祝った。
 南アフリカ共和国の黒人教会に於いて50年ほど前に世界的に大ヒットしたポピュラー音楽が讃美歌として歌われていることをご存じだろうか。サイモンとガーファンクルの最大のヒット曲「明日に架ける橋」だ。『荒れ狂う激流に架かる橋のように、私が身を横たえあなたを渡らせると歌われている。』この曲は神と人、人と人の間を断絶する全ての問題をイエスさまが十字架によって解決してくださるというイメージがある。教会でゴスペルを聞いていた時ひらめきが与えられたポール・サイモンが作った曲だ。アパルトヘイト(人種隔離政策)で差別を受け苦しんでいる自分たちの間に横たわる理不尽な差別や苦しみを無くしてくださる方がやがて来るという希望が、黒人の人々の大きな力になっている。
 クリスマスはイエスさまが平和の架け橋を架けてくださった日でもある。地の上に平和があるようにと願っておられる神さまに背を向けて歩む人の罪によって関係 の断絶、国と国との痛ましい戦争が繰り広げられこの地上は平和を失っている。イエスさまはクリスマスにお生まれになり十字架によって人間の不幸の原因である罪を除き天と地を結びつける架け橋となってくださった。
 イエスさまを信じる時神さまの愛を受け、人との関係に於いても憎しみと敵意から許し と和解の道へと導かれてゆく。イエスさまに出会い、断絶した父親との関係が回復し和解によって父親を天の御国に送るという想像も出来なかったことが実現したと、ある女性が証しをしてくれた。この女性の証しにあるようにイエスさまは架け橋となって荒れ狂う人間関係に和解と祝福の橋を架けてくださる。 
 クリスマスのこの時、イエスさまを贈ってくださったまことの神さまに感謝し平和の架 け橋となってくださるイエスさまをお迎えしよう。


『段階を踏みながらの開眼』 マルコ8:22~38 [礼拝メッセージ]

12月10日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 イエス様はベッサイダの地で目が不自由な人をいやされたが、この時2段階に分けて完全に目が見えるようにした。これは、弟子がイエス様に従う時、段階を経て教えに目が開かれていくことを表している。
 イエス様が弟子たちと行動を共にして3年たった頃、弟子が自分のことを正しく認識しているか確認すると、ペテロは「あなたはキリスト(真の王であり祭司であり預言者である救い主)です」と信仰告白した。しかし、イエス様がこれから起こる苦難(十字架)と復活について予告されると、弟子たちは理解することができなかった。イエス様は弟子たちを一喝し、弟子の心構え(イエス様に従い続けること)を教えられた。
 イエス様を信じて救われたら、次は弟子になり、イエス様の愛に感謝し、喜んで犠牲を払う生き方をしてほしい。イエス様がその人を通して実現するご計画があり、イエス様に従う時それが明らかになる。
 ペテロはヘルモン山でのイエス様の変貌を見てさらに目が開かれ、ペンテコステのご聖霊降臨で完全に目が開かれ、イエス様の生涯の意味が理解できた。あきらめないでイエス様に従うと、次々と目が開かれていく。
 ある男性の体験を紹介したい。彼は私と聖書の学びをしたが、神様の存在が理解できたのはその後の体験を通じてだった。北海道の大地に沈む夕日を見て、大自然を作った創造主の存在がわかり、賛美を聞いてイエス様が救い主であることが理解できた。また、人間関係に行き詰った時、自分の価値観を人におしつけていた罪と、その自分をゆるし受け入れてくれるイエス様に気づいた。ものの見方と相手への対応を変えることで人間関係が激変した。 
 主に従う時、段階を経て、いろいろな体験を通して私たちの目が開かれるように、イエス様は導いてくださる。

『パリサイ人とヘロデのパン種に気をつけよ』マルコ8:11~21 [礼拝メッセージ]

12月3日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 パリサイ人たちがイエスに求めた「天からのしるし」とは、「メシヤ(救い主)である証拠」のこと。しかしイエスはすでに、それを明らかにしてきた。例えば、生まれつきの盲人やツァラアトを癒すことができるのは、メシヤだけであるとユダヤ人は教えられてきたが、イエスはそのどちらも癒している(ヨハネ9:1〜7、マルコ1:40〜42)。そのような奇跡の力を見ても、パリサイ人たちは「悪霊どものかしらベルゼブルによることだ」と言って、イエスを信じなかったのである(マタイ12:24)。
 ここから教えられることは、求道者にも2つのタイプがいるということ。トマスのように「信じることができるように、裏付けを与えてほしい」という思いで求める人には、主はご自身を明らかにし、応えてくださる(ヨハネ20:24〜27)。しかしパリサイ人のように、どんなに証拠を見せても、最初から信じないと決めている人には、しるしを与えてはくださらないだろう。
 次にイエスは「パリサイ人とヘロデのパン種に気をつけるように」と言っている。パン種とは「誤った教え、解釈」のことであり、パン種がパン全体を膨らませるように、最初は小さな間違いであっても、放っておくと大きな影響力を与えることになる。例えばヨブ記を読むとき、神がヨブを苦しめているように感じるかもしれない。しかし、聖書の神は苦しむ者と共に苦しむ神であり、十字架で私たちの身代わりとなって苦しんでくださった神なのだ。神をどう理解するのかは、私たちの信仰に直結する。「そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された(ヨハネ3:16)」神を、私たちの信仰のベースにしたい。
 また、「パリサイ人のパン種」とは、行いによって救われるとする律法主義のことでもある。エペソ2:8〜9に、救いは恵みと神からの賜物によるのであり、行いによるのではないと、はっきり書かれている。つまり信じた時点で救いは確定しており、そこからもれることは決してない。神は人間を、能力や行いによる「使用価値」ではなく、貨幣のように変わらない「存在価値」で愛してくださっているのだ(ルカ15:8〜10)。
 では「行い」はどうでも良いのだろうか?否。エペソ2:10にあるように、行いは救いの条件ではなく、救われた目的、結果なのである。本当にイエスを信じた人は、地の塩、世の光としての役割を果たすように、生き方が変えられる。良い行いをも、神が備えてくださるのだ。

『わたしは世の光です』 ヨハネ8:12 [礼拝メッセージ]

11月26日礼拝メッセージ(川端伝道師先生)より

 今日のメッセージの箇所の御言葉は、「わたしは世の光です。わたしに従うものは、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」というものだ。
 旧約聖書では一番初めに「神は仰せられた。『光あれ』。すると光があった。」と記している。この世界にとって無くてはならないもの、全ての命にとって根源的に必要なものが光なのだ。
 また詩編36:9には「いのちの泉はあなたとともにあり、あなたの光のうちに、私たちは光を見るからです」とあり、これは私たち人間は太陽の光だけではなく、神様から来るまことの光こそ必要で、そのうちにいかされているのだと伝えている。
 出エジプト記には、神様がイスラエルの民をエジプトから脱出させるため、エジプト全土を真っ暗闇にされたとある。今の時代の夜とは違い、灯火もない真の闇はどれ程恐ろしかったことだろう。
 
 イエス様はご自分のことを「世の光」と言われたが、その光には二つの側面がある。姦淫の罪を犯した女をイエス様の前に連れて来た律法学者やパリサイ人は、「あなたはこの罪人をどのように扱いますか」と判断を迫り、彼らにイエス様はこう言った。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」。
 この時示されたイエス様の光が「義の光」だ。それはその場にいる全ての人の心にある罪を照らし出し、一人、また一人と去っていった。「正義の使者」として女を裁こうとしていた彼らは、イエス様の義の光に照らされて、皆その場にいられなくなったのだ。
 もう一つの側面はイエス様の「愛の光」である。彼は女に対して、「わたしもあなたに裁きを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」と、罪の赦しを宣言した。この光を見ることが出来たのはこの女性だけ、先に去っていった律法学者やパリサイ人は「義の光」は見ても、「愛の光」を見ることができなかった。私たちもこの女性のように、自分自身の心を「義の光」に照らされ、たとえ自分の罪がさらけだされようともそこに留まり、イエス様の温かな「愛の光」に照らし出される必要がある。へりくだりそこに留まることで、赦しの恵みの中に生きる者になれる。

 またイエス様は私たちに対して、「あなたがたは世の光だ」と仰られた。イエス様を信じ受け入れた者はすでに光を心に宿しているから、その光を輝かせなさい、と。では、世の光として生きるとはどういうことなのか。それは決して大きなことを成し遂げたり、その人自身がスポットライトを浴びることではなく、小さな平和に仕えること。周囲の人に温かい光をかざすこと。
 決して忘れてはいけないことは、「私たちは暗闇に遣わされている」ということだ。周りの環境や人に対して愚痴や文句を言うのではなく、それを受け入れ、その暗闇の中で静かな光を灯す街灯になること。イエス様は私たちに期待のまなざしを向けておられる、それぞれ遣わされている暗がりにおいて、小さくても確かな光を灯すことができるように。