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『まことのぶどうの木』ヨハネ15:1-5 [礼拝メッセージ]

10月29日礼拝メッセージ(川端伝道師先生)より

 ヨハネの福音書の特徴の一つとして、イエス様の自己紹介である自己啓示7つ収められているが、その一つが「わたしは、まことのぶどうの木」だ。ぶどうの木の前に、「まことの」とあり、「正真正銘の」と強調されている。それは、旧約の時代神様が願うような実を結ばなかったイスラエルの民に代って、世界を祝福する為に地に植えられた「まことのぶどうの木」がイエス様ご自身だと啓示されている。
 ぶどうの木の幹であるイエス様、枝である私達。枝は木が無ければ枯れてしまい、幹も枝が無ければ実を結べない。イエス様と私達は同じ1本の木であって、一つの命を共有している関係で、イエス様に繋がって生きる事はキリストの命に結ばれて生きる事。その証明として、「私はぶどうのこの様なものだ」「あなたがたは枝のようなものだ」でなく、「私はぶどうの木で、あなたがたは枝です」。と言い切っておられる。イエス様は私達の事を「自分の事の様に」ではなく「自分の事として」考えておられる。それが、命を共有する関係である。
 幹であるイエス様と繋がる枝である私達には、豊かな実を結ぶと約束して下さったが、それはどんな実なのか?パウロがガラテヤ5:22で「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」と記している。これらの共通点は、自分と誰かの間で結ばれ自分の人生に残り続ける実ではなく、他の誰かの人生で結ばれていく実だという事だ。これこそ、イエス様が私達という枝を通して結ぶ事を願っておられる“実”である。そして、イエス様も同様に私達に多くに実を残して下さった。十字架によって示された愛が、イエス様と出会った数えきれない人々の人生の中で、その愛の実は、今もなお実り続けている。私達のとても小さな働きも、どんなに虚しく思えることも、イエス様と繋がっている限り、必ずどこかで実を結ぶ。これが、私達が枝として、まことのぶどうの木であるイエス様に繋がって生きる幸いなのである。何でもない自分が用いられる、たとえどんなに不器用でも必ず実が結ばれるので、主の御名の為になされる様々な働きに積極的に参与してく私達となりたい。