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『第二戒 見えない神を信じる幸い』出エジプト20:4~6、30:1~6 [礼拝メッセージ]

4月28日礼拝メッセージ(川端伝道師先生)より

「偶像を造り、それらを拝んではならない」。これが第二戒で命じられている事柄だ。ではこの「偶像礼拝」の罪の本質とは何なのだろうか。
 創世記1章27節に「神は、人をご自身のかたちとして人を創造された。神のかたちとして男と女に彼らを創造された」とある。このことが示す第一は、「人間は、他の被造物とは区別される存在」だということ。聖書のみことばにもあるように、私たちは全ての被造物を神に替わって管理するという特別な使命が与えられている。
そして第二は、「人間だけが、神様との交わりに生きることができる存在」だということ。私たち人間には神の言葉を聞き、神様と心を合わせ、その言葉に応答する能力が与えられている。人間だけに与えられた特権だ。
 そのように特別な存在として神様に造られた私たち人間が、木や石でできた人格のないものに向かって頭を垂れる、神でないものを拝むようになった。偶像礼拝とは偶像に仕えることで偶像に似たものとなる行為であり、人間自らを著しく引き下げ、創造主なる神をこの上なく悲しませる罪なのだ。
 モーセがシナイ山で十戒を授かっているその時、兄アロンとその同胞たちは山のふもとで40日もの間待っていた。彼らは不安を募らせ、モーセの代理アロンに訴えた。「我々に先立っていく神々を、我々のために造ってほしい」。そしてそれぞれエジプトから持ち帰った金の装飾品をかき集めて子牛のかたちの鋳型に流し、出来上がった像を皆で拝んだというのが「金の子牛事件」である。
 なぜイスラエルの民は偶像礼拝に手を染めてしまったのか。彼らは決してまことの神と全く別の神を生み出した訳ではない。目に見えない神を目に見えて触れられる、自分たちが信じやすい形に置き換えたということなのだ。彼らは目に見えない神を信じ従うという信仰に留まることができなかった。偶像礼拝の本質は、人が神様というお方を、自分好みのイメージに変えることであり、私たち本位の願い、望み通りの鋳型に流し込んで「神様像」を造ること。それを「これが私たちの神様だ」と礼拝すること。
 この第二戒は決して、私たちと縁遠い戒めではない。
 なぜイエス様が当時のユダヤ人たちから受け入れられなかったのだろうか。それはイエス様が、彼らの想定した「救い主」の枠の中に収まらなかった、型破りなお方だったからだ。私たちは自分の考えが及びもしないような、理解できないことを平気で許される神に失望し躓いてしまう。
 偉大な神様は私たちのちっぽけな頭の中、願いの中に収まるようなお方ではない。
 私たちはどうしても「安心」を求めてしまう。安心とは見通しが立っている状態のことだ。現実的で具体的な安心を与えてくれるものにすがってしまう、それがその人の「偶像」となる。
 彼らとは真逆の態度を示したのは少年サムエルだ。彼はある夜、自分の名前を呼ぶ神の声を聞いた。主人エリが呼んだのかと勘違いしてエリに尋ねるがそうではなかった。エリはサムエルに助言して、サムエルは従った。「主よ、お話しください。しもべは聞いております」そして神様は大いなるご自身の計画を語られた。
 サムエルのように、みことばの前に静まる人の心には偶像が生まれる余地がない。その人自身が神様にあって造り変えられてゆく。
 彼のように、イエス様の母マリヤのように、黙って主の御声に耳を傾ける姿に、私たちは倣うものでありたいと思う。