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『パリサイ人とヘロデのパン種に気をつけよ』マルコ8:11~21 [礼拝メッセージ]

12月3日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 パリサイ人たちがイエスに求めた「天からのしるし」とは、「メシヤ(救い主)である証拠」のこと。しかしイエスはすでに、それを明らかにしてきた。例えば、生まれつきの盲人やツァラアトを癒すことができるのは、メシヤだけであるとユダヤ人は教えられてきたが、イエスはそのどちらも癒している(ヨハネ9:1〜7、マルコ1:40〜42)。そのような奇跡の力を見ても、パリサイ人たちは「悪霊どものかしらベルゼブルによることだ」と言って、イエスを信じなかったのである(マタイ12:24)。
 ここから教えられることは、求道者にも2つのタイプがいるということ。トマスのように「信じることができるように、裏付けを与えてほしい」という思いで求める人には、主はご自身を明らかにし、応えてくださる(ヨハネ20:24〜27)。しかしパリサイ人のように、どんなに証拠を見せても、最初から信じないと決めている人には、しるしを与えてはくださらないだろう。
 次にイエスは「パリサイ人とヘロデのパン種に気をつけるように」と言っている。パン種とは「誤った教え、解釈」のことであり、パン種がパン全体を膨らませるように、最初は小さな間違いであっても、放っておくと大きな影響力を与えることになる。例えばヨブ記を読むとき、神がヨブを苦しめているように感じるかもしれない。しかし、聖書の神は苦しむ者と共に苦しむ神であり、十字架で私たちの身代わりとなって苦しんでくださった神なのだ。神をどう理解するのかは、私たちの信仰に直結する。「そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された(ヨハネ3:16)」神を、私たちの信仰のベースにしたい。
 また、「パリサイ人のパン種」とは、行いによって救われるとする律法主義のことでもある。エペソ2:8〜9に、救いは恵みと神からの賜物によるのであり、行いによるのではないと、はっきり書かれている。つまり信じた時点で救いは確定しており、そこからもれることは決してない。神は人間を、能力や行いによる「使用価値」ではなく、貨幣のように変わらない「存在価値」で愛してくださっているのだ(ルカ15:8〜10)。
 では「行い」はどうでも良いのだろうか?否。エペソ2:10にあるように、行いは救いの条件ではなく、救われた目的、結果なのである。本当にイエスを信じた人は、地の塩、世の光としての役割を果たすように、生き方が変えられる。良い行いをも、神が備えてくださるのだ。

『わたしは世の光です』 ヨハネ8:12 [礼拝メッセージ]

11月26日礼拝メッセージ(川端伝道師先生)より

 今日のメッセージの箇所の御言葉は、「わたしは世の光です。わたしに従うものは、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」というものだ。
 旧約聖書では一番初めに「神は仰せられた。『光あれ』。すると光があった。」と記している。この世界にとって無くてはならないもの、全ての命にとって根源的に必要なものが光なのだ。
 また詩編36:9には「いのちの泉はあなたとともにあり、あなたの光のうちに、私たちは光を見るからです」とあり、これは私たち人間は太陽の光だけではなく、神様から来るまことの光こそ必要で、そのうちにいかされているのだと伝えている。
 出エジプト記には、神様がイスラエルの民をエジプトから脱出させるため、エジプト全土を真っ暗闇にされたとある。今の時代の夜とは違い、灯火もない真の闇はどれ程恐ろしかったことだろう。
 
 イエス様はご自分のことを「世の光」と言われたが、その光には二つの側面がある。姦淫の罪を犯した女をイエス様の前に連れて来た律法学者やパリサイ人は、「あなたはこの罪人をどのように扱いますか」と判断を迫り、彼らにイエス様はこう言った。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」。
 この時示されたイエス様の光が「義の光」だ。それはその場にいる全ての人の心にある罪を照らし出し、一人、また一人と去っていった。「正義の使者」として女を裁こうとしていた彼らは、イエス様の義の光に照らされて、皆その場にいられなくなったのだ。
 もう一つの側面はイエス様の「愛の光」である。彼は女に対して、「わたしもあなたに裁きを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」と、罪の赦しを宣言した。この光を見ることが出来たのはこの女性だけ、先に去っていった律法学者やパリサイ人は「義の光」は見ても、「愛の光」を見ることができなかった。私たちもこの女性のように、自分自身の心を「義の光」に照らされ、たとえ自分の罪がさらけだされようともそこに留まり、イエス様の温かな「愛の光」に照らし出される必要がある。へりくだりそこに留まることで、赦しの恵みの中に生きる者になれる。

 またイエス様は私たちに対して、「あなたがたは世の光だ」と仰られた。イエス様を信じ受け入れた者はすでに光を心に宿しているから、その光を輝かせなさい、と。では、世の光として生きるとはどういうことなのか。それは決して大きなことを成し遂げたり、その人自身がスポットライトを浴びることではなく、小さな平和に仕えること。周囲の人に温かい光をかざすこと。
 決して忘れてはいけないことは、「私たちは暗闇に遣わされている」ということだ。周りの環境や人に対して愚痴や文句を言うのではなく、それを受け入れ、その暗闇の中で静かな光を灯す街灯になること。イエス様は私たちに期待のまなざしを向けておられる、それぞれ遣わされている暗がりにおいて、小さくても確かな光を灯すことができるように。

『新約教会の回復』使徒2:42~47 [礼拝メッセージ]

11月19日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

Ⅰ.食事と共有
 イエス様は弟子たちや罪人、世の中の底辺に生きる人々との食事を大切にされた。コミュニケーションの場としても重要である食。実は食べる環境、雰囲気が味覚に大きく影響すると言われている。誰と食べるかが特に重要。初代教会の人々は見えないイエス様を中心に心を一つにして食事を共にし、神を賛美した。初代教会の祝福の印である家の教会の食事が豊かに用いられますように。
 経験の賜物の共有。過去に辛い経験を持つ人が、今同じような事で苦しんでいる人と分かち合いをすることで苦しむ人の慰めになることがある。また、乗り越えることができたことを思い返し、主の恵みを証する場となる可能性もある。あるいはこんな賜物共有の仕方もある。Mさんが音大生の友達とクリスマスフェスティバルに特別出演してくれることになった。日頃の成果を発表したいという思いとクリスマスフェスティバルを盛り上げてもらえると、お互いにwinwinの関係になる。
Ⅱ.使徒の働きに見る家の教会
 使徒の働きには、初代教会は家から始まったことが描かれている。8章にはクリスチャンを迫害していたパウロは家から家を巡って男も女も引きずり出して牢に入れたとあり、12章には救い出されたペテロがその不思議な出来事を知らせてほしいとマリアの家に行ったとある。20章「益になることは公衆の前でも家々でも余すことなくあなた方に伝え、また教えてきました。」パウロがエペソの長老たちへのお別れメッセージとしてのくだりである。   
 このように、多くは目立つことなく家庭といういくつもの小さな集まりが存在し、それらを拠点として主イエスの福音宣教が確実に行われていった。そしてこの家の教会がどんどん増殖して信じる人が多く与えられて、ローマ帝国中に広まっていき、国教化、国の宗教にまでなった。ローマ帝国をひっくり返した、その原動力は家の教会。令和のこの時代、教会が初代教会の霊的な力を回復するためにぜひ、初代教会の姿に戻りたいと切願している。
Ⅲ.牧場活性化の秘訣
「俺は信じへん」と言っていたOさん。その奥さまや牧場メンバーの熱心な祈りとGODタイミングで受洗へと導かれていった。その後、神さまの存在はOさんの生活や考え方まで変えていった。コントロールできなかったお酒の飲み方が変えられたばかりか、牧者の依頼も引き受けられた。「あなたは高価で貴い、私はあなたを愛している」や、主の恵みは弱さの内に現れる、とみことばを実感として受け止め、信仰をもって生活を選び取ることが出来るようになったという。さらにOさんは牧者を通してメンバーの人たちの痛みを共有することができるようになって、信仰と人格が広げられた。それぞれの牧場で3つのポイント、(祈りの成就による神体験、VIPの存在と救い、メンバーの成長、変化)こうしたことの一つでも、ぜひ体験してほしいと思う。

『愛は寛容、愛は親切②』Ⅰコリント13:4 [礼拝メッセージ]

11月12日(成長感謝祝福式)礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

Ⅰ.愛は寛容
『愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。』
(Ⅰコリント13:4)
 今日は「成長感謝祝福式」ですので、それにちなんだメッセージをさせていただきます。
 コリント人への手紙第一13章13節には、「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」とあります。ではなぜ、愛が一番すぐれていると言われているのでしょうか。同じ13章7節で「愛はすべてを信じ、すべてを望み」と説かれている様に、愛は信仰と希望の原点となっているからです。また、愛は神の本質そのものだからです。私たちは天国に於いて、神と完全な交わりを持つことになります。その時には信仰も希望も必要ありません。神様との完全な愛の交わりだけが残ります。この神の愛は、「行いによって」ではなく、「恵みと信仰」によってのみ無条件で得られるのです。行いは自分が愛されていると分った時に生まれてきます。愛は寛容と親切とをもって相手に伝わって行きます。「寛容」は許しの愛、「親切」は相手のニーズに応え、満たす愛です。イエス様は、自分の弱さを知らずに失敗したペテロや、イエス様を本当のメシヤと知らずに信者を迫害したパウロを許されました。寛容は相手を許す愛です。
Ⅱ.愛は親切
 親切は相手のニーズを満たすことにありますが、その一つの「褒めること」を考えてみましょう。子どもが草取りのお手伝いをしてくれた時、「お手伝いをしてくれていい子だね~」と人格を褒めたお母さんと、「お手伝いをしてくれてありがとう~」と行動を褒めたお母さんがいました。前者の子は、褒められることを期待して行動する様になり、後者の子は、自分の行いが他の人を喜ばせることを知るようになります。後者の子は自分に自信が生まれ、自分を好きになります。自分を好きになる人は、他の人に優しく接することが出来るようになります。褒めることの3ポイント①「途中で」②「こまめに」③「事実を」、を思い出して活用してみましょう。許しの愛である寛容と、相手のニーズを満たす親切の愛の実践にチャレンジする者とさせて頂きましょう。

『まことのぶどうの木』ヨハネ15:1-5 [礼拝メッセージ]

10月29日礼拝メッセージ(川端伝道師先生)より

 ヨハネの福音書の特徴の一つとして、イエス様の自己紹介である自己啓示7つ収められているが、その一つが「わたしは、まことのぶどうの木」だ。ぶどうの木の前に、「まことの」とあり、「正真正銘の」と強調されている。それは、旧約の時代神様が願うような実を結ばなかったイスラエルの民に代って、世界を祝福する為に地に植えられた「まことのぶどうの木」がイエス様ご自身だと啓示されている。
 ぶどうの木の幹であるイエス様、枝である私達。枝は木が無ければ枯れてしまい、幹も枝が無ければ実を結べない。イエス様と私達は同じ1本の木であって、一つの命を共有している関係で、イエス様に繋がって生きる事はキリストの命に結ばれて生きる事。その証明として、「私はぶどうのこの様なものだ」「あなたがたは枝のようなものだ」でなく、「私はぶどうの木で、あなたがたは枝です」。と言い切っておられる。イエス様は私達の事を「自分の事の様に」ではなく「自分の事として」考えておられる。それが、命を共有する関係である。
 幹であるイエス様と繋がる枝である私達には、豊かな実を結ぶと約束して下さったが、それはどんな実なのか?パウロがガラテヤ5:22で「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」と記している。これらの共通点は、自分と誰かの間で結ばれ自分の人生に残り続ける実ではなく、他の誰かの人生で結ばれていく実だという事だ。これこそ、イエス様が私達という枝を通して結ぶ事を願っておられる“実”である。そして、イエス様も同様に私達に多くに実を残して下さった。十字架によって示された愛が、イエス様と出会った数えきれない人々の人生の中で、その愛の実は、今もなお実り続けている。私達のとても小さな働きも、どんなに虚しく思えることも、イエス様と繋がっている限り、必ずどこかで実を結ぶ。これが、私達が枝として、まことのぶどうの木であるイエス様に繋がって生きる幸いなのである。何でもない自分が用いられる、たとえどんなに不器用でも必ず実が結ばれるので、主の御名の為になされる様々な働きに積極的に参与してく私達となりたい。

『四千人の給食』 マルコ 8:1~10

10月22日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 イエス様が再びデカポリス地方に行かれた時、男だけで4000人もの人々が集まり三日間も食事もせず、イエス様の話に聞き入っていた。なぜ群衆はイエス様のもとに来たのか?それは以前、多くの悪霊につかれ、墓場で昼夜叫び続け、自分の体を傷つけ暴れ、誰にもどうすることもできなかった人を、イエス様が悪霊を追い出し癒されたからである。本人は正気に返り、家族も癒され回復した。人々はそれを目撃し、また本人の証により言い広められていた。そのイエス様が今度は耳が聞こえず話すことのできない人を癒されたと聞いたので、大勢の群衆が集まって来たのである。
 この三日間ろくに食べていない群衆をイエス様はかわいそうに思われた。イエス様は私達の霊的必要だけでなく、物質的・肉体的必要も心配してくださる。この時期のイエス様の関心事は弟子達を訓練し成長させることである。それでイエス様は心配事を口にし、「5000人を満腹にされたあなたですから大丈夫ですよね」と弟子達の信仰を引出したかったのである。それなのに弟子達はあの5000人の給食の奇跡の体験を活かすことができなかった。5000人の給食はイエス様の奇跡の中で四福音書すべてに記されている唯一のもので、それほど弟子達にとって、自らの手で群衆に配り、感謝され感動した奇跡なのに、弟子達は見事な霊的記憶喪失症になっていたのである。イエス様は4000人を7つのパンで満腹にされた。
 イエス様はどんなにがっかりされたことか。しかし、この弟子達を私達は笑うことができない。私達も困難や試練を恵みにより乗り越えてきたのに、また同様な困難・試練に遭う時、あたふたとしてしまう。私にとっては葬儀がそれである。葬儀はいつあるかわからず、メッセージを考え、失礼がないよう配慮し、思ってもみないリクエストにも応える。でも様々な経験から「主が何とかしてくださる」という信仰が与えられつつある。
 弟子達は「こんな人里離れたところで~」と言ったが、私達もそれを言ってもよい。ただ、「でも、5000人を満たしたあなたなら何とかしてくださるでしょう」と返してほしい。私達は物事を悲観的に捉える傾向がある。しかし、イエス様にあって「でも」と前向きなことばで思考を変え、感謝し、プラスにひっくり返していきたい。

『祝宴の家より喪中の家』伝道者7:2 [礼拝メッセージ]

10月15日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 召天者合同記念礼拝が行われた。「思い出に残る故人との会話、一言」が今年のテーマだったが写真を通して故人のエピソードや思い出によって故人を偲び神さまがどのように関わってくださったのか、また私たちはどのように生きてゆくかを鑑みる貴重なひとときとなった。
聖書のことばに「祝宴の家に行くよりは喪中の家に行くほうがよい」という箇所がある。 祝宴の家よりも喪中の家に行くほうが人生を教えてくれるということだがこの意味を考えたい。
 長野県佐久市にぴんころ地蔵が建立され健康長寿を願い多くの人が訪れているという。そこにはピンピン生きてコロッと死にたいという人間の願望が表されている。コロッと死にたいという思いには苦しまずに死にたい、寝たきりになりたくない、周りに迷惑かけたくない、最後まで自分は自分らしく生きたいという願いが込められている。しかし同時に死という未知のものに対する恐怖もあるのではないだろうか。死後の世界に対する疑問は誰にも聞けないし、その答えは誰も知らない。死は一方通行なのだ。
 世界の偉人達に有ってイエスさまだけに無いものがある。それは墓であり、イエスさまは死から蘇られたので墓は必要ないのだ。パウロはイエスさまの復活の証人として、人類の罪を贖うためイエスさまは十字架にかかり死を打ち破って3日目に蘇られた事は聖書が教える最も大切なことだと体験を通して証言している。イエスさまは復活によって死後の世界を知っておられ死後どうなるかも知っておられる。
 癌で余名幾ばくも無い方が「癌で死ぬことも怖いが死後どうなるのか不安と恐れがある」 と言って苦しんでいたが友人を通してイエスさまに出会い、死に対する不安と恐れから開放され安心して天の御国に帰って行った。また、ダイナマイトを発明したノーベルは自分の意に反して武器として使われている事で苦しんでいたが兄の死を自分が死んだと誤報され自分がどう思われているかを知り、ダイナマイトで得た莫大な財産を世界に貢献した人に役立てたいという思いがノーベル賞誕生の基となった。死生観が定まると生き方も変わる。
 召天者記念礼拝を通して死を見つめ、主に在って自分の生き方を考える時としてゆこう。 

『祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。』       伝道者7:2


『エパタ』マルコ 7:31~37 [礼拝メッセージ]

10月8日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

  イエス様は以前多くの悪霊につかれた人を癒されたデカポリスという町に行かれた。人々はイエス様のもとに、耳が聞こえず口のきけない人を連れてきて癒しを頼んだ。イエス様は群がる民から彼を連れ出して個人的に、ご自分の指を彼の両耳に入れ、つばで彼の舌を触られ、天を見上げて父なる神様の力をいただいて、「エパタ、閉じていた耳よ開け」と命じられた。すると彼の耳は開き舌のもつれがとけ、はっきり話せるようになった。群衆は感動したが、イエス様が彼らにこのことを言い広めないように命じたことを守れなかった。イエス様の願っておられることと、正反対のことをすると同時に、本当の意味で聞くということの難しさを教えられる記事でもある。
 聴くとは相手の話に耳を傾け、真意を理解しようとすること。牧師でカウンセラーの田中信生氏は、そのためにはエコーが大切だという。エコーとは相手の気持ちや言葉をそのままリピートすることだが、その際のポイントは最も鍵となる言葉をエコーすることである。このエコーと同類項なのは反射傾聴と呼ばれるもの。子育てで子どもが問題を抱えているようにみえる場合、親はまず子どもの声に耳を傾け、適切なエコーをしてあげると、子どもは親に自分の気持ちを正直に話すようになる。反射傾聴で全てが解決するわけではないが、子どもの気持ちをほぐし、親がいつも味方であるという安心感を与えることができる。そしてこの反射傾聴は子どもだけではなく、あらゆる人間関係に有効である。エコーは心の扉を開く。
 教団のある前信徒理事の息子さんは、クリスチャンホームで育ち教会に通っていたが、小学校でいじめに遭い不登校になり、教会にも行かなくなった。その後二十歳で大学入学し卒業後弁護士になり、教会にも復帰した。弁護士を志したきっかけは、神様との交わりの中でいじめについて考え、神様がさせた経験ならば何か意味があるに違いないと考え、少しでもいじめに遭っている人を助けてあげたいからであった。彼は、不登校にならなければこんな進路を選ぶことはなかっただろうし、神様の不思議な導きを感じていると言っている、自分の意にそわない試練や苦しみにあったとき、この意味を主に聴くと、人間の思いを超えた答えが返ってくることが多い。主があえて赦すなら試練も意味がある。私の心の耳をイエス様の「エパタ」という一声をもって開いていただいて、しっかりと神様の声、人の声を聴き取ることができるようにと祈ろう。

『主よ。その通りです。でも』マルコ7:24~30 [礼拝メッセージ]

10月1日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 今日の箇所の前提として、イスラエル民族を「選びの民」、それ以外を「異邦人」と呼ぶ。しかしそれは、えこひいきではなく、イスラエルを通して人類全体を救うことが神の目的。つまり健全な選民意識とは、誇るためではなく、全人類を祝福するために選ばれているという使命に生きることである。
 このカナンの女は異邦人であったが、汚れた霊につかれていた幼い娘のために「すぐにイエスのことを聞き、やって来てその足もとにひれ伏した」とある。それは「このチャンスを逃したくない」という彼女の強い思いと信仰の表れだろう。これに対するイエスの「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのは良くないことです」という答えは一見冷たく思える。しかしそれは、救いはまずイスラエルからという優先順位によるものであり、同時に彼女の信仰を引き出すための言葉でもあった。彼女は異邦人だったが「食卓の下の子犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます」という信仰により、またイエスの「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました」という言葉を信じて従うことにより、素晴らしい応えを受け取ることができたのである。
 イエスの十字架と復活の後、使徒の働き10:44に書かれているように、異邦人を含め全ての人々に聖霊がくだされる時代となった。私たちも異邦人だが、今は恵みの時であり、全ての人がイエスを信じるだけで救われるのだ。
 またこのカナンの女は、イエスの言葉に反発するのではなく、救いの優先順位をそのまま受け入れた上で、「でも、子どもが食卓の下に落としたパン屑なら、子犬がいただいてもいい」と霊的発想力を広げている。そしてそれは、イエスは愛なるお方であり、苦しんでいる人をほっておかれないという、信仰に基づいた交渉でもある。ここから学べることは、「①相手の話をよく聞いて、そこからプラスを引き出す」「②神のご性質やみことばを盾にとって祈る」ということだ。
 私たちも、一見否定的に聞こえる言葉に出会ったり、自分の中に否定的な思いがわいてくることがあるだろう。しかしその後に「でも」とプラスの発想を引き出し、主に信頼して、みことばをもって祈っていこう。そうするなら、このカナンの女のように、主の恵みの御業を体験することができるだろう。

「私もOK,あなたもOK」 マルコ7:14~23 [礼拝メッセージ]

9月17日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 イエス様は,「人を汚すのは,食物ではなく人の内から出るもの(罪の性質)である」と言われ,具体的に悪い行為をあげた。さらに,それを実行しなくても,心で思うことも罪だと言われた。人は自分の力で罪を解決できない。私たちの罪の処罰の代わりに身代わりになってくださった,イエス様の十字架のあがないを受け取るしかない。

 対人関係において自己受容できる人(私はOK)は,他の人を受容できる(あなたもOK)。人は自分をどう理解し,受け入れているかが大切で,健全なセルイメージが豊かな人生のカギだ。
この世では人は行いで評価されるが,聖書(エペソ2:8~9)には「信仰によって救われた,行いによるのではない」と書かれている。創造主なる神様は,能力や態度によってではなく,私たち自身を愛してくださっている。私たちをこの世界に必要な存在として作ってくださったが,人はあら探しや争いをしている。まことの神様は,愛するものを傷つけること(罪)に怒り悲しみ,罪の解決方法が御子イエス様の十字架だ。この十字架の恵み,そのままの私たちをOKと言ってくださることがわかれば,卑屈さや高慢さがなくなり,自分を受け入れ,隣人も受け入れられるようになる。

 人をしばるのは内側から出てくる考えで,セルフイメージを変えれば,人は変わることができる。人は,経験と努力で今より成長できる。自分の成長を信じれば,失敗しても再チャレンジし,他人の成功をがんばりのエネルギーにできる。
 日本の若者の自己肯定感が低いのは,「他人との比較による自己肯定感」に基づくからだ。創造主である神様が「一人ひとりを価値ある存在として愛している」ことがわかると,自己肯定感が変わってくる。