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『復活の喜び』  Ⅰコリント15:3~5 [礼拝メッセージ]

4月21日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

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 聖書のメッセージで最も伝えたいことは、「イエス様は十字架で死なれ、三日目に蘇られた」ということだ。私たちクリスチャンにとって「死」はスタートであり、復活の体を頂くための「門出」である。イエス様の復活を信じ心に受け入れるなら、私たちはキリストの復活の力を頂くことができるのだ。
 本日洗礼の恵みに預かったKさんは、ご主人の機嫌を損ねないように、怒らせないように、常に気をつけ恐れていた。そんな彼女がイエス様を受け入れたら、冷静に自分の思いを恐れることなくご主人に伝えることができた。Kさんが信仰告白するきっかけになったのは、アーサー・ホーランド先生の「不良牧師」という本だ。その中の一節、新宿の雑踏の中でアーサー先生の叫ぶ「あなたは愛されている」という言葉に心を動かされた、「自分は愛されているんだ」と。このイエス様の愛は表面的なものではない、私たちの罪のために十字架で死なれた、まさに「犠牲の愛」だ。
 しかし、皆が100%受け入れるわけではない。聖書にも、復活のイエスに出会った弟子たちは「礼拝した。しかしある者は疑った」とある。弟子の中にも疑う者がいたのだ。私自身も17歳で洗礼を受けたが、聖書に書かれてあること全てを信じたわけではない。しかし主は、疑いを持つ弟子たちにも、大宣教命令を伝えられたのだ。みことばに従うことによって、私たちは変えられる。100%信じていなくても大丈夫、「やってみたい」「従いたい」人に、主は祝福を与えて下さるのだ。
 

 

復活祭礼拝 [行事]

復活祭はイエス様の復活を祝う記念日です。

春の訪れを告げる桜の花で礼拝堂を彩り,
それぞれに桜にちなんだピンク色のものを身に付けて礼拝に出席しました。

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『色メガネを外して見る』使徒の働き 14:1~7 [礼拝メッセージ]

4月7日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 今から約2000年前、パウロとバルナバが伝道旅行に行き、イコニオムでメッセージを語ったところ、大勢の人がイエス様を信じた。しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちをそそのかして兄弟たちに対して悪意を抱かせ、二人を石打ちにしようとし、二人は難を避けてルステラの方へ行き宣教を続けた 真実を知らない人が一部のユダヤ人にそそのかされてパウロとバルナバを見る時に、色メガネがかかり、二人がペテン師・詐欺師・悪人に見えるようになった。私達もこの世の見方・考え方・固定概念に縛られていることはないだろうか?イエス様によってその色メガネを外す時に真実や本質が見えてくる。
 マタイ19:13~15では弟子たちが、イエス様に祈っていただこうと子供たちを連れて来た親たちを叱った。イエス様が本気で子供たちに関わるとは思ってもみなかったのである。しかし、イエス様は「じゃまをするな」と逆に弟子達を叱られた。イエス様は「天の御国は子供のようにわたしを信頼する者たちの国である」と子供たちの上に手を置いて祝福を祈られた。 5~13歳でイエス様を信じる確率は通常の5倍である。子供は豊かに成長し社会も教会も担うようになる。しかし子供は一人では来れない。子供が教会へ来るには親の理解と応援が必要である。私達は親との信頼関係を築きながら福音を伝えていきたい。クリスチャンホームでは恵みを分かち合い、朝祈って子供たちを送り出してほしい。親と教会がスクラムを組んで子供たちの成長にあたりたい。
 私はかねてから、その人の人生にたった一回限りの洗礼式に多くの人が立ち会えないことを寂しく思っていた。それが4/1~4韓国に家の教会の研修に行った時に解決が与えられた。洗礼式を礼拝の中で、滴礼でするなら、受洗者を教会員全員で主の家族に迎えられる。「洗礼は全浸礼ですべき」という色メガネを外すことできた。
 また、韓国で学んだことは、必ず「決心の祈り」の祝福をもって奉仕につかせることである。アンテオケ教会もパウロとバルナバの上に手をおいて祝福を祈ってから伝道旅行に送り出した。イエス様も40日40夜、断食の祈りをもって公生涯に入られ、一晩中祈って12弟子を選び、ゲッセマネで血のような汗を流し祈ってから十字架への道を歩まれた。祈りなくして主のための奉仕はできない。これからは「決心の祈り」はメッセージの応答だけでなく、その人が奉仕につく前にも必ず用いる。

『反対を用いられる主』 使徒 13:44~52 [礼拝メッセージ]

3月31日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 安息日に会堂で、異邦人も救われるとパウロとバルナバが神のことばを語ったとき二つの反応が起きた。異邦人達はとても喜んだ。それに対して一部のユダヤ人達は自分達だけが神様に選ばれた民族であるとのプライドから、パウロ達に反感を示した。しかし彼らの激しい反対がパウロ達を異邦人に向かわせ、本格的な異邦人宣教の始まりとなり旧約の預言が実行されたのである。ステパノの事件もしかりである。
 ネヘミヤ記からも見てみよう。ユダ王国がバビロニアに滅ぼされて140年経った頃、ペルシヤの高官であったネヘミヤはエルサレムから来た旅人らからエルサレムの城壁は荒れ果て、ユダヤ人は経済的・精神的・信仰的にも疲れ果てていることを聞いた。彼は王の了承を得てエルサレムに行きすぐに城壁再建に尽力した。妨害もあったが同胞を励まし克服し完成させた。ネヘミヤのエルサレムの荒廃を悲しみ城壁再建の原動力となったのは、当時の都市は強盗や異民族からの攻撃や侵略から、城壁が国や人々を守るためには必要不可欠であったからである。彼は王にエルサレムへの旅の安全と城壁再建のための可能な限りの援助を、神様と同胞のためにあつかましいほど求めた。神様の願っておられることの実現のためにはあつかましいほどのお願いをしていい。
 ネヘミヤが城壁再建のためにとった方法から学ぶべきことは、小分けにして分担し集中したことである。彼はこの方法で90年間完成できなかった城壁をたった52日間で再建したのである。このことはネヘミヤの類いまれなリーダーシップと敵の圧力が合わさってのことであり、正に敵の妨害さえも用いられる主のみわざであった。
 最高の脳トレとは何らかの逆境を必死で乗り越えていく経験である。私たちの脳は普段はリミッターが掛かっているが、本当に切羽詰るとリミッターが外れ火事場のばか力が出て脳が鍛えられる。だから何度も修羅場をくぐってきた人は人間としての底力が違う。このことは神様が私たちに敵や試練・課題を与えられる理由である。
 ネヘミヤは敵を打ち破るため、祈って知恵を振り絞り城壁再建とリバイバルに導いた。私たち一人一人にも与えられている課題があるのではないだろうか。また私たちの教会に与えられている課題はJF食堂とこれから始まる学びである。神様からの知恵を頂きながら皆でこの課題に向かっていきたい。


「恵みに気づけ!」マタイ20:1〜16 [礼拝メッセージ]

3月24日礼拝メッセージ(中村牧師先生)より
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 マタイ18章から、イエス様が語る天の御国の説明が始まる。「天の御国では、自分たちの中で誰が一番偉いのか」と尋ねる弟子たちには、子どものように自分を低くする人が御国で一番偉いのだと答えられ、御国に入るための行いについて尋ねる金持ちの青年には、財産を手放すように言われている。それを聞いて立ち去った青年を見て「それでは、誰が救われることができるでしょう」と言う弟子たちに、イエス様は「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます」と答える。つまりイエス様が言いたいのは「救いは行いによるのではなく、神の御業による」ということ。今回の箇所もこの流れの中で話されたことであり、ぶどう園の例え話を通してイエス様が最も言いたいことは、天の御国に入るということと、その恵みの大きさに気づくことの大切さである。そこを踏まえずにこの箇所だけを見ると、不公平に感じるかもしれない。しかし、天の御国に入ること(救い)は、この箇所の例え話のように、行いに関わらず等しく与えられるが、救われた後の御国での報いについては、一人一人が天に宝を積むかどうかで違ってくるのだ。
 イエス様が十字架で命を与えてくださったのは、それほどまでに私たちのことを愛してくださっているからであると同時に、それほどまでに天の御国が素晴らしいからでもある。私たちはすでに、そこに入れる恵みをいただいているのであり、その恵みの大きさに気づくことをイエス様は願っている。
 ぶどう園の例え話で朝から雇われていた人たちは、放蕩息子の例え話の兄息子と同じように、主人と共に働く恵みに気づいていなかった。しかし、ぶどう園の主人はこの人たちに怒ったのではなく、「友よ」と声をかけている。主人はこの人たちに、恵みに気づき、それを味わってほしかったのである。「あなたはねたんでいるのですか」という問いかけには、「私とあなたの間に、他の人を入れるのか」という意味が込められている。
  私たちは、恵みが当たり前のようになり、忘れてしまいそうになる弱さを持っている。しかし主は、何度でもやり直しさせてくださるお方だ。御国のために働かせていただける恵みを味わい、喜んで「先の者」となる私たちでありたい。