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「恵みに気づけ!」マタイ20:1〜16 [礼拝メッセージ]

3月24日礼拝メッセージ(中村牧師先生)より
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 マタイ18章から、イエス様が語る天の御国の説明が始まる。「天の御国では、自分たちの中で誰が一番偉いのか」と尋ねる弟子たちには、子どものように自分を低くする人が御国で一番偉いのだと答えられ、御国に入るための行いについて尋ねる金持ちの青年には、財産を手放すように言われている。それを聞いて立ち去った青年を見て「それでは、誰が救われることができるでしょう」と言う弟子たちに、イエス様は「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます」と答える。つまりイエス様が言いたいのは「救いは行いによるのではなく、神の御業による」ということ。今回の箇所もこの流れの中で話されたことであり、ぶどう園の例え話を通してイエス様が最も言いたいことは、天の御国に入るということと、その恵みの大きさに気づくことの大切さである。そこを踏まえずにこの箇所だけを見ると、不公平に感じるかもしれない。しかし、天の御国に入ること(救い)は、この箇所の例え話のように、行いに関わらず等しく与えられるが、救われた後の御国での報いについては、一人一人が天に宝を積むかどうかで違ってくるのだ。
 イエス様が十字架で命を与えてくださったのは、それほどまでに私たちのことを愛してくださっているからであると同時に、それほどまでに天の御国が素晴らしいからでもある。私たちはすでに、そこに入れる恵みをいただいているのであり、その恵みの大きさに気づくことをイエス様は願っている。
 ぶどう園の例え話で朝から雇われていた人たちは、放蕩息子の例え話の兄息子と同じように、主人と共に働く恵みに気づいていなかった。しかし、ぶどう園の主人はこの人たちに怒ったのではなく、「友よ」と声をかけている。主人はこの人たちに、恵みに気づき、それを味わってほしかったのである。「あなたはねたんでいるのですか」という問いかけには、「私とあなたの間に、他の人を入れるのか」という意味が込められている。
  私たちは、恵みが当たり前のようになり、忘れてしまいそうになる弱さを持っている。しかし主は、何度でもやり直しさせてくださるお方だ。御国のために働かせていただける恵みを味わい、喜んで「先の者」となる私たちでありたい。