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「赦されやすい心」I歴代誌21:1〜8 [礼拝メッセージ]

5月26日礼拝メッセージ(中村牧師先生)より
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  I歴代誌21:1に「サタンが・・・イスラエルの人口を数えるように、ダビデをそそのかした。」とあるように、人口調査そのものが罪だというのではなく、ダビデが神に依り頼むより、軍事力を頼りとしたり、誇ろうとしたことが問題だったということ。また20:1を見ると「王たちが出陣する時期になった。・・・しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。」と書かれており、部下だけを戦場に送り、自分は怠惰な生活を送っていたこともうかがえる。この時期に、部下の妻であるバテ・ジェバとの姦淫の罪も犯しており、彼がサタンにつけ入られやすい状態だったと言えるだろう。その結果、21:7にあるように、具体的な内容はわからないが「神はイスラエルを打たれた」のだった。
しかし続く21:8でわかるように、ダビデの素晴らしさは、罪を示されたらすぐに向きを変え、自己弁護することなく、自ら進んで神に赦しを請うところにある。これはダビデが、悔い改める者に赦しを与えてくださる神の恵みに信頼しているからこそであり、そこにダビデの特別さがあると言えるだろう。
人間の罪の根源は、神に背を向けて生きてきたことにある。「そうは言っても『神が直接話してくれたら』『イエスをこの目で見たら』信じられるのに」と考えてしまうかもしれない。しかし、実際にその時代に生きていても、イエスを信じた人々は非常に少なかった。むしろ、人間の体や宇宙のしくみが明確になるにつれて、創造主なる神の偉大さ、素晴らしさがよくわかるという、今の時代だからこその恵みもあるだろう。神は医療や科学を通しても、ご自身を現してくださっている。
罪の刈り取りを通して、王としての真の悔い改めへと導かれたダビデは、やがて神殿を建てる場所へと導かれていく。ダビデは失敗はした。しかし、示されたらすぐに悔い改め、向きを変えた時、失敗をも益とされ、先に続く恵みへと変えられた。神は私たちにも同じようにしてくださるのだ。
私たちの教会では、地域の方に仕えるためのJF食堂が本格的にスタートしたが、ここ2回ほど、フードバンクで確保できる予定の食材が足りないというピンチがあった。しかしたくさんの教会員が食材を提供してくれたり、調理に携わってくれた結果、とても豪華な食事になった。「フードバンクに食材がないから無理かも」と考えるのは、ダビデが軍事力に頼ったのと同じことになるのかもしれない。この体験を通して、神は「もっと私に頼りなさい」と教えてくださったように思う。ご自身に頼る者を祝福してくださる神に信頼し、期待していこう。


『危機が恵みに』使徒 14:8~20 [礼拝メッセージ]

5月19日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 ルステラの町でパウロが生まれながらの足なえの人を癒したのを見た群衆は、パウロとバルナバを神のように祀り上げようとした。二人は憤り、自分達も皆と同じ人間であると言ってこの行為を止めさせた。統一教会というキリスト教を騙った新興宗教を創った文鮮明はイエス様の十字架を失敗として、自分こそ救いを完成させる為に現代に現れたキリストだと言い、大きな社会問題になった。素晴らしい人を尊敬するのはいいが弱さ・欠点・判断を誤る人間を神としてしまうと悲劇が起こる。キーワードはそれ以上でもなくそれ以下でもなくである。
 また逆に謙遜と卑下とは違う。日本には謙譲の美徳という考え方があり、子どもや配偶者を褒めるよりけなすのである。日本の中高生たちに健全なセルフイメージが育っていないのもこういう日本文化のマイナス点である。褒めるということは嘘ではなくその人のいいところを認めて言葉で評価してあげる。人は加点法をもっていく時大きく伸びるのである。
 パウロとバルナバは神に祀り上げられるのを断っただけでなく、それを真の神様を語る機会と変えた。創造主について考えてみる。万有引力を発見したニュートンは宇宙は目に見えない偉大な神によって創られ存在していると信じている熱心なクリスチャンであった。また人間の血管は体中全て継ぎ合わせると約10万kmにもなり、しかもその働きの違いのため動脈は6重、静脈は3重のパイプになり、静脈には逆流を止めるための弁がある。驚きである。遺伝学の権威の村上和雄氏は、遺伝子を学べば学ぶほど細胞の働きは人間業ではなく人類を超えて奇跡としか言いようがないと言い、これを設計した方をSomething Great(偉大な、どなた)と呼んでいる。この方こそ真の神様である。
 一難去ってまた一難、パウロがアンテオケとイコニオムから来たユダヤ人たちに石打にされた。瀕死の状態にも関わらず弟子たちがパウロを取り囲んでいると、パウロは立ち上がり町に入って行った。パウロたちの宣教によってルステラの町にも弟子たちが出来、その中にテモテがいた。テモテの母や祖母が傷の手当てをしたと思われる。テモテはパウロに尊敬と感動を覚え二人の心が結び合った。災いの中にも主の守りがあり、逆にそれが用いられて生涯を共にする主の弟子が誕生したことは驚きである。試練は無い方がいいが、にもかかわらず試練が起こるのは主の赦しの中。その中でマイナスと思われることを逆に、神様はひっくり返して栄光と恵みに変えてくださる。危機は恵みに変えられるのである。

『プラス発想で生きる』ローマ12:2 [礼拝メッセージ]

5月12日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 私達は自分の身近な人や周りの人に小言のようなことを言われたらどの様に受け止めるだろうか。作家、三浦綾子、光世夫妻はもう天国に帰られたが食事のときに小言のようなことを事細かく綾子さんは光世さんから言われていた。普通、私達ならストレスになってしまうであろう事だが、綾子さんはそれを自分を愛するが故の忠告、アドバイスとして聞いたという。夫婦円満の秘訣は相手の善意を小言としてではなく善意として受け止めてゆくことだと三浦夫妻から教えられるのではないだろうか。
 『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新に
よって自分を変えなさい。』  ローマ12:2
 心の一新とは何だろう。心とは考え方、思考であり、事柄を前向きに積極的に捉え表現することだ。私達は自分の固定概念能力中で物事を考え、本質が見えなくなり相手に対して素直に感謝の気持ちや愛情表現ができなくなってしまうことがある。難しいチャレンジだが相手に対して前向きに感謝の気持ちや愛情表現を表し続けると夫が、妻が、子どもたちが変わってゆく。相手ではなく、心の一新によって自分を変えてゆこう。否定的な考え方から肯定的な考え方へ、そして前向きな言葉を使い続けよう。
 でも自分の心の中にどうすることもできないようなストレスや悩みがあるときはできるだけ早く自分の信頼する人に聞いてもらい、思い切り吐き出そう。そうすることで前向きに考えることができる余裕が出てくる。神さまは必ず助け人を備えていてくださる。
 母の日礼拝、子どもたちがお母さんに言葉で賛美で愛と感謝を伝える姿が愛らしかった。私たちもメッセージの適応として大切な人に感謝の気持ちを前向きな気持ちで前向きな表
現で表そう。まことの神さまの大きな祝福が私たちの上にありますように。

「イエス様は天井破りがお好き」マルコ2:1〜12 [礼拝メッセージ]

5月5日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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  イエスが家の中でみことばを話していた時、中風(脳血管障害の症状)の人を治してもらおうと、4人の友人がイエスのもとに運んでくる。しかし戸口のところまで人がいっぱいで、イエスに近づくことができない。普通なら、あきらめるか待つかするところだが、なんとこの友人たちは、イエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。友人たちを動かしたのは、緊急を要する事態に際し「イエスに会えば何とかなる」という、求める信仰であろう。この行動に対し「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた。」と書かれている。つまりこの中風の人は、友人たちの信仰によって、ただ癒されただけではなく、罪の赦し(救い)も与えられたというのである。もちろん救いの土台は個人的な信仰によるが、私たちが本当に人の救いを願い、全力を尽くすなら、救われる希望があるのだ。そのために必要なのは、まず祈ること。大切な人の救いのために粘り強く祈り続けることで、救いの道が開かれる希望がある。
 この友人たちがしたことは、障害となっていた壁を突破したこと(英語で表すなら「ブレイクスルー」)である。つまり課題は、人々とイエスを隔てている壁を取り払うことであり、教会にとって、そのためのポイントは「地域にどう仕えるか」ということ。私たちの教会の幼児教育やJF食堂も、地域に仕えるためのブレイクスルーとして取り組んでいる。
 またこの友人たちは、中風の人を担いでくるという体力的犠牲、屋根をはがしたり修復するための経済的犠牲、怒られたりひんしゅくを買うかもしれないという精神的犠牲を払っている。神の愛の背後には、イエスの十字架の犠牲があるように、愛には必ず犠牲がある。そしてそれは、人を変えるパワーを持つ。救いの土台は個人の信仰によるが、そこに至るまでの周りの人の祈りや働き、犠牲を用いてくださる主に期待していこう。

「御恵みのことばを証明された」 使徒14:8~11 [礼拝メッセージ]

4月28日礼拝メッセージ要約(野口牧師先生)より

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 ルステラの町にはユダヤ人が少なく会堂がないため,パウロとバルナバは街頭で語った。そこにいた足なえの人の信仰を見て,パウロがいやした。なぜパウロは大勢の人の中でその人に注目したのか?その人がパウロのメッセージを熱心に聞いていたからだろう。御言葉を聞く時,その聞き方によって結果が異なる。メッセージを自分のために語られている言葉として受け止めると,心に信仰が引き起こされる。
 パウロは,足なえの人にいやされる(=救われる)信仰があるのをみて,イエスさまの御名で命じ,いやされた。パウロとバルナバが行った奇跡を通して,イエス様の言葉が神の言葉であると証明されたのだ。
 救われた人には変化が現れる。先週受洗したKさんは,アーサー・ホーランド先生の本で読んだ「あなたは愛されている」という言葉を自分への語りかけと受けとめ,いやされ,自分の足で歩き出した。条件付きの愛(行為や持っているものによる評価)では,人は平安や満足を得ることができない。もっとも大切なのは,その人の存在をそのまま受け入れてくれる愛である。Kさんは,イエス様の愛を知り自分自身のものとする時,自分の殻を破り,家族に思いを伝えられるようになった。
 マタイ10:29~30に書かれているように,雀1羽,私達の髪の毛1本でさえ,神様の許しがなければ地に落ちない。神様は私達一人ひとりを愛し,知りつくしている。その愛がイエス様十字架に裏付けられている。この愛を知る時,私達も飛び上がり,自分の足で歩くことができる。