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かきおこ [キラキラ会]

3月のキラキラサタデーは岡山県日生の名物、カキオコにチャレンジしました。
お好み焼きにプリプリの大きな牡蠣を乗せて焼きます。おいしい~!
参加は21名でした。

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『良きサマリア人になるためには』ルカ10:25-37 [礼拝メッセージ]

3月17日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 良きサマリア人から教えられる教えられることとは何だろう。エリコに行く途中で強盗に襲われ大怪我を負い道端に倒れていた人を助けたサマリア人。
 彼は隣人を助けるために必要な豊かさを持っていた。その豊かさとは大怪我をして倒れている人を可哀想にと思う心の豊かさ、手当てをして宿屋に連れてゆき介抱するために必要豊かな財力を持っていた。倒れている人を可哀想と思っても自分に豊かさがなかったら祭司やレビ人のように通り過ぎることしか出来ない。旅の途中だった彼は自分のすべき本来の目的を果たすために宿屋の主人にお金を渡し、足りなっかったら帰りに払うからと言って怪我人の介抱を頼み出かけて行った。彼のように素直に助けを求めて他の人に依存することも必要だと教えられる。それぞれが自立しているが、どうしても助けが必要なとき素直に助けを求め、お互いに助け合い支え合ってゆく健全な依存である相互依存を私達も目指してゆこう。
 また助けられた人がすべきことは何だろう。もちろんサマリア人に対する感謝も大切なことだ。でも一番大切なことはイエスさまが「あなたが立ち直ったら兄弟たちを力づけてあげなさい」とペテロに言われたように、今度は自分が困っている人を助けて受けた恵みを返してゆくことだ。それはペテロだけに言われているだけではなく私達にも言われている。助けていただいた者として一人ひとりに与えられている豊かさを用い,助けを必要としている人を助け、神さまから受けた恵みをお返ししてゆこう。一人の力は弱くてもみんなで力を出し合い知恵を出し合うとき良きサマリア人となることができるのではないだろうか。また一人ひとりがしっかりと自立し、必要なときにはお互いに助け合い支えあって素直に助けを求めることができる関係を主に在って築いてゆこう。
今日、神と会衆の前で婚約式が行われた。これからの生活の中でお互いがお互いの良きサマリア人となりますように。私達も良きサマリア人になるためにイエスさまの願っておられることを実践してゆこう。

「ピシデヤのアンテオケ伝道③」使徒13:42〜44

3月10日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 バルナバとパウロがピシデヤのアンテオケで福音を語ったところ、大きな反響があった。この2人は名コンビと言えるが、名コンビの条件について考えてみると、お互いに似ている共通点があると同時に、全く異なる側面を持っている者同士であろう。バルナバとパウロの場合は、信仰に対する熱い想いという共通点と同時に、性格的には、柔和で人を育てるバルナバと、力強くけじめがあるパウロという違いを持っていた。
聖書では名コンビのことを「ふさわしい助け手」と表現されており、それは右手と左手のようなものである。例えば、利き手で箸を持ち、もう片方の手で茶碗を持つことで食事ができるように、全く違う動き、役割をしながら、同じ目的のために進むのである。
人々はバルナバとパウロに、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだと書かれている。旧約聖書が最も伝えたいことは「救い主が生まれる」ということであり、ずっとそれを待ち望んできた人たちは、「それがイエスであり、十字架の死から蘇ることによって、罪からの解放の道を開いてくださった」という福音を聞いた喜びに、何度でも同じ話を聞きたいと願ったのである。私たちも礼拝を大切にしているならば、1年間に53回はメッセージを聞いていることになるが、何度でも喜んで聞きたい、そして人にも伝えたいという思いになることだろう。
パウロはイスラエルの歴史から、福音を伝えた。私たちも、日本の行事を歴史的に考えてみると、福音につながるものがあることが見えてくる。例えば雛祭りについて考えてみよう。雛祭りは、農作業の収穫のため、種まきの前に女性がみそぎをし、心身のけがれを人形にうつす習わしが始まりだった。最初は使い捨ての人形だったのが、やがて使い捨てではない雛人形になり、それがいつしか子どもの成長を願う行事に変わっていったのである。つまり、人形が心身のけがれを引き受けることで、子どもの成長、幸せを願う意味があり、これはイエスの十字架と似ているのではないだろうか。また、端午の節句には鯉のぼりを飾る習わしがあるが、うちの教会でも鯉のぼりを飾っている。それは、昔クリスチャンが迫害を受けていた時代に、魚の絵を描くことで信者同士が確認し合っていたから。なぜならギリシャ語で魚は「イクスウス」といい、「イエス、キリスト、神の、子、救い主」の頭文字を並べた言葉になるからだ。このように、日本の伝統行事も、証しや伝道に用いることができるのである。
一人一人が互いの共通点と違いを活かし、聖霊によって、礼拝メッセージで力と知恵をいただいて、日本の伝統行事も大いに用いながら、good newsである福音を伝えていこう。



『ピシデヤのアンテオケ伝道②』 使徒13:16~41 [礼拝メッセージ]

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3月2日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 パウロとバルナバは伝道旅行の途中で,安息日にピシデヤのアンテオケの会堂に入った。そこでパウロは聖書の歴史を説明しながら,「イエス様が旧約聖書で約束された救い主だと信じてほしい」と語った。旧約聖書は一貫して「救い主が来られる」ということを伝え,新約聖書のもっとも言いたいことは「救い主はイエス様」ということである。
 初代教会では,使徒だけではなく一般信徒が伝道し,救われる人が起こされていった。クリスチャンはイエス様を信じるだけではなく,説明を求める人にイエス様について語ることができるように,聖書のエッセンスを学んでおいてほしい。そのための学びの機会も設けたい。
 救いの歴史を見ると,まことの神様は段階を踏んでイエス様を送り,救いを完成したことがわかる。同様に,イエス様を伝えるにも段階・プロセスが大切である。私は,牧師になる前に,家の教会の牧者や教会の執事など教会のリーダーとして人を導く経験をすることが大切だと考えている。このような経験を積まず牧師になる人もいるため,教団で若い牧師を教育するためのプログラムを導入した。また,子供達を育てる教会学校スタッフになるには,アシスタントとして訓練を受け,成長してほしいと思っている。
 旧約聖書に書かれている救い主イエス様が来られたのに,なぜユダヤ人は十字架にかけたのか?それは彼らが持っていた救い主の先入観と異なっていたからである。パウロは神様に義と認められるために律法をすべて守るべきと考えていた。しかし律法を完成せてくださったイエス様と出会い,誤解と偏見から解放された。
 ご聖霊によって正しいものの見方をすることが必要である。教会や牧師を自分の偏見で理想化する人がいる。弱さや短所があっても,「イエス様の思いで他の人と交わっているか,忠実にイエス様に従っているか」という目で見てほしい。いろいろなものごとをイエス様の目で見て,イエス様のためにどう用いるか考えよう。

『ピシデヤのアンテオケ伝道①』 使徒13:13~16 [礼拝メッセージ]

2月24日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

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 「なぐさめの子」バルナバは、教会の中心的存在であり、主の器であった。しかしパウロが現れてから、バルナバは彼を皆に仲介し、引き立て、表舞台に立たせ、自らを「脇役」とした。リーダーシップを交替したのだ。
 バルナバのこの働きなくしては、パウロは大伝道者になり得なかっただろう。自分は目立たなくても、また用いられなくても、神のはたらきがなされたらいいんだ、とするバルナバこそ、正にご聖霊に満たされた人である。また彼は、若いマルコを伝道旅行に連れ出し、パウロにとりなし、教育した。このような働きは私達の教会においても必要だ。ぜひ若い人には、子ども達を育てる大切な働きである「Jキッズ」のスタッフになってほしい。ベテランスタッフから信仰の継承と共に奉仕も継承し、マルコのような新戦力となってほしい。
 私達クリスチャンの優先順位の一番は、「安息日」を守る、つまり「主の日」を守り、礼拝を捧げることだ。これは即ち、自分の人生を主にお捧げします、と信仰告白することなのだ。但し律法的にではなく、その生活を楽しみ、自分自身を充電させ、自分自身も隣人も愛せるクリスチャンになっていただきたい。
 その上で、どうか与えられた賜物を生かしてほしい。パウロは豊かな聖書知識を持つ師(ラビ)だったので、礼拝でイエス様が救い主であられることを、旧約聖書の預言に照らし合わせ、正しく伝えることができた。礼拝という与えられたチャンスを生かしたのだ。同じように私達には、4月から毎月開催される、JF食堂というチャンスがある。すでにVIPが何名も奉仕で活躍している。礼拝よりも敷居が低く、お誘いしやすい。お年寄りから幼子まで集えるJF食堂、ますます地域に用いられることだろう。さあ、あなたにはどんな賜物があるだろうか?その宝を持ち腐れにすることなく、イエス様のために大いに活用していただきたい。