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『ありがとうの日』 コロサイ3:15b [礼拝メッセージ]

LINE_ALBUM_20231219_231219_7.jpg6月18日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

Ⅰ.まず誰に感謝を?
  『また、感謝の心を持つ人になりなさい。』(コロサイ3:15b)
  初めに、「たいせつなきみ」(マックス・ルケード著)と言う絵本を朗読していただきました。
 ウイミックスという木の小びとの暮らす村が舞台です。木の小びとたちはエリという彫刻家によって彫られ、ひとりひとり姿も形も違っていました。ウイミックスはいつも金ピカのお星さまシールと、醜い灰色のダメ印シールを持っていて、互いにくっつけ合って暮らしていました。いつもダメ印シールばかり付けられているパンチネロは、ある日、どちらのシールも一枚も付いていない、ルシアという小びとに出会います。シールが付いていない訳を聞くと、彫刻家のエリと会うことを勧められます。エリと会ったパンチネロは、自分がエリによって今の自分の形に造られたこと、また、自分はエリにとってとても大切な存在であり、エリから愛されていること、そしてその事は同じ小びとたちの評価のシールよりずっと大切であることを知りました。パンチネロはエリのことばは本当だと思いました。その時、パンチネロの体からダメ印のシールが一つ、地に落ちたのでした。
 私たちは自分で生きていると思っていても、命を与えられたお方に生かされているのです。私たちを創られ、命を与えて下さっている創造主なる神様にまず感謝を捧げるべきではないか、と教えられます。 
Ⅱ.いろいろなひとに、いろいろな事に
  私たちの身の回りで起こる、思いもよらないような出来事も、神様の知らないところで起こっているのではなく、すべて主の御手の中で起こっています。その理由は今は分らなくとも、自分の成長のために必要であったことが後で分かります。自分にとって欠点、弱点と思えることも、信仰の目を持ってとらえて行く時に、感謝に変えることが出来ます。自分には不利と思える事でも、主を信頼し、主を賛美し、主にお祈りするとき、主もその信頼に答えて不思議な恵みを与えて下さいます。
Ⅲ.感謝する人は
  心理学者であるマックラー博士の実験によりますと、感謝する人はストレスをあまり受けない、自分が幸せだと感じると体に力が満ち、病気になりにくい、という事です。また、他の人に喜びを与えると、感謝と喜びはウイルスの様に周りの人たちに伝染することが分かったという事です。ともに、感謝の心を持つ人にさせて頂きましょう。





『人の思いをはるかに超えて働かれる方』マルコ5:21~43    [礼拝メッセージ]

6月11日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 会堂司のヤイロの大切な娘が病に倒れ死にかけていた。ヤイロがイエス様の足元にひれ伏し娘の病気を癒しを懇願した。途中、婦人病を患っていた女性(長血の女)の癒しに時間を取られ、その間に娘は亡くなる。娘が亡くなり、ヤイロの信仰の灯が消えかけた時、イエス様は「恐れないで信じていなさい」と励まされた。そして、イエス様が娘に声を掛けると生き返る奇跡が起こる。イエス様が長血の女に時間を割いたのは、一刻も早く娘を癒して欲しいヤイロの苛立ちも全てわかった上で、神様の栄光を表す為にあえてした事。もうだめと諦めかける時ほど、その解決が与えられた時に主の栄光があらわれる。
 エホバの証人の教理に関心をもった人が、聖書の学びもしてみたいと、我が教会を訪れ牧師との学びを始めた。平行してエホバの証人の学びもしていたので、学びの都度、双方の教理で揺れ動き、学びの長期化で当人も牧師も疲弊し学びを中止したことがある。その当人は、当時の放送されていたドラマの登場人物が信仰を失いかた時に信仰を取り戻すきっかけの言葉を聴き、自分に語られているように感じた。そして聖書の学びを再開し、不思議なほど聖書の真理を素直に受け入れ、エホバの証人の教えが間違えにも気づき、信仰をもった。霊的開眼のきっかけはテレビドラマのセリフであった。不思議なご聖霊の働きで、何が用いられるかわからないことがわかる。もうだめと思う時、人間的には不可能な時こそ、主の栄光は一層引き立ち、褒め称えられる。
 祈りがかなえられない時、どう捉えるかを考えたい。40歳のモーセはエジプトの王子の座よりエジプト人に虐待されている同胞イスラエル人を救おうと、必死に祈って行動したが失敗し荒野に逃亡した。祈りがかなえられず失敗したのは、モーセの時では無かったからだ。聖書はへブル人への手紙の中でモーセのこの行動を称賛している。神が喜ばれるのは、人柄や能力でなく信仰である。たとえ、その時叶えられなかったとしても、信仰の祈りはこの世の富に勝る永遠の報いとなって天に積まれる。その祈りを神様は心から喜ばれる。だから、私達は諦めず祈りを捧げ続けたい。

『自分にどんなに大きなことをしてくださったかを』マルコ 5:1~20 [礼拝メッセージ]

LINE_ALBUM_20231219_231219_2.jpg6月4日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
              
 イエス様は「向こう岸へ渡ろう」と弟子達に言われ、向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。そこにどうしても救いたい人、悪霊につかれた人がいた。彼は自分で自分がわからない、自分がいやで仕方なくて、墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つけ、誰もそれを止めさせることができない生き地獄状態にいた。悪霊はイエス様が神の子であることを知っており、イエス様には逆らえないので、せめて、この人から出て行った後、そこで飼われている豚の群れに入らせてくれるようイエス様に懇願する。豚に入った悪霊どもは二千匹ほどの豚を湖へなだれ込ませ溺死させてしまう。人々は彼が服を着て正気に返って座っているのを見て恐れ、イエス様にこの地方から出て行ってほしいと懇願した。彼らには一人の人の救いより、豚二千匹の損失の方が大きかったのである。同じように私達がイエス様を信じて喜んでいると、第三者の反応は冷ややかなことがある。身内がクリスチャンになると、家の宗旨と違う、家族の団らんが阻害されるなどと反対する。しかし、個人の信仰は憲法に保障された自由、心の問題は自分で決める権利がある。同時に、主を信じ主の愛を現していく時に主は道を開いて下さる。反対していた人がイエス様を信じる恵みを主は体験させてくださる。
 悪霊につかれていた人がイエス様にお供させてほしいと願うと、イエス様は「あなたの家、家族のところに帰りなさい。主がどんなに大きなことをしてくださったかを知らせなさい」と言われる。彼は自分の体験をデカポリス地方で言い広める。主が遣わされた所、そこに聞く人が待っている。この地方の人は以前の彼の状況をよく知っており、彼の大きな救いと変化を誰も否定できず、その反響は大きかった。私達も自分にしか語れない証をそれぞれ持っている。聖書のことを理論的に話すのが苦手な人も自分の体験は語ることができる。
 私達は説明を求める人には弁明できる用意をしておきたい。「聖書とはなに?」と聞かれて、皆さんはどう答えますか? 聖書は実に不思議な書物で、1600年かけて、40人もの人によって書かれたにもかかわらず、見事に統一性がとれていて、救い主イエス様について証言している。皆さんが福音を語る手助けになるように、これから週報コラムに連載していく。 

『向こう岸へ渡ろう』 マルコ 4:35~5:1 [礼拝メッセージ]

5月28日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 今日の箇所はイエス様と弟子たちが舟で湖の向こう岸に渡ろうとした時、嵐にあい、弟子たちは怖れたが、イエス様はおことば一つで湖を凪にしたところ。このことは弟子たちに対するイエス様への信仰のテストとして用いられた。弟子訓練で一番大切なのは、イエス様とそのみことばへの信頼だが、弟子たちにはその信仰がなかった。イエス様は父なる神様と共に世界を創造されたお方。この出来事を通して、イエス様は100%真の神であり、100%人間であることを明らかにされた。牧者のSさんは、人生の海の嵐があったからこそイエス様の元に戻って来ることができたと証しされた。イエス様はあえて私たちの人生に嵐を起こさせて、そこからご自分のみもとに導くことを、時にはされるお方である。
 弟子たちはいったいこのお方はどういう方なのだろうかと驚いたが、同様にクリスチャンもイエス様に従っていく時に、信じられないような奇跡を体験することがある。先週メッセンジャーとして来られた金子牧師は、外交官を辞めて牧師になった。みことばから、国会議員になって働きたいと志しが与えられ、参議院議員に当選した。選挙の2日前に安倍首相暗殺事件が起こったが、この時牧師として国政にいるのは、この事件に関わるべきではないかと思った。入党した維新の党が作ったタスクフォークという特別チームに入り、そこで統一教会を取り扱う法律を作ったり、色々な対策を行った。それをきっかけにマスコミや他の議員たちに、本物の福音とは何かを語るという奇跡を体験した。
 イエス様に従う時、向こう岸に着くことが出来る。私たちもコロナという突風によって被害を受けたが、これからが城壁を建て直し破れを繕っていくとき。①まずは家の教会。エペソの初代教会は家の教会の集合体だった。今こそ教会を本来の姿に戻さなければ祝福はない。それが家の教会(牧場)である。②Jキッズ(教会学校)。Jキッズもコロナで大打撃を受け人数が減ってしまった。一般の子どもたちへの宣教も大切な働きである。今回子ども食堂とお楽しみ会のコラボを考え、これを起爆剤として子どもたちが友だちを誘ってJキッズに繋がるために用いていく。③学びを再開。家の教会の三本柱は礼拝・牧場・学びである。今回開講するのはバウンダリー(境界線)の学びで、互いに自分の重荷は自分で担い、自分で負えない重荷は人の助けを借りていいという内容である。コロナあけの松原聖書教会の霊的な反転攻勢が主に喜ばれて、約束の向こう岸に着くために用いられますように。