SSブログ

「愛を伝える5つの方法」 Ⅰコリント9:20 [礼拝メッセージ]

5月14日母の日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
0514 (2).jpg
 パウロはイエス様のすばらしさを人々に伝える時に,相手に合わせて伝え方を変えた。同様に,効果的なコミュニケーションのためには,相手に合わせた愛の伝え方が必要である。
 ゲイリー・チャップマン著『愛を伝える5つの方法』によると,愛を表す方法(相手が愛を感じる一次言語)は5つある。今回は子供との関係で考える。
①スキンシップ
ハグやほおずり,大きくなるとハイタッチなど。幼児期に特に重要なもので,愛情のこもった楽しいふれあいが情緒の成長に必要。
②クオリティタイム
1対1で何かを一緒にし,充実した時間を過ごすこと。また,家事や仕事の手をとめて相手の話を聞くこと。
③プレゼント
④肯定的なことば
子供の達成状況を見て言葉にしてほめること。ほめ方の3つのポイントは,「途中で」(行動の途中で)「こまめに」「事実を」(できていることを見つけて)ほめることである。
⑤サービス行為
子供の甘えに応じる,困りごとにこたえる,チャレンジを助けること。

 子供の愛の一次言語を知るのは,相手に聞くのがよい。「お母さんのどんなところが好き?」とたずねることで,喜ぶポイントがわかる。子供の求めているものと親の考えが異なる場合があるが,相手の望んでいることを知って合わせることが大切だ。
 あるお母さんは,小学生の娘のできていないことにNGを出していた。しかし,娘に合わせた愛情表現をする(できたことをほめ,ごほうびを与える)ことで子供のやる気スイッチが入った。

「愛を与える5つの方法」は,夫婦,家族,友人等どんな人間関係でも応用可能。豊かな人間関係を築くために用いてほしい。


『聞いて受け入れる人』マルコ4:1~20 [礼拝メッセージ]

5月7日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
0507 (2).jpg
 「聞く」ということはコミュニケーションにとって非常に重要であるにも関わらず、学校の授業で学ぶことはなく、自然に身につけるのも難しい。その理由として、①何か気になることがある時、言葉は耳に入っていても、きちんと理解して「聞く」ことができなくなる②話す速度より、聞く速度のほうが早いというタイムラグがある③同じ発音でも意味が違う言葉や、よく似た発音の言葉による勘違いが起こる等がある。対策としては、気になることがある場合は、イエス又は信頼できる人に聞いてもらうこと。また、速度のタイムラグを利用して相手の話を頭の中でまとめたり、よくわからないことは確認しながら聞くことをお勧めしたい。
 福音を伝える方法として、イエスは例え話を多く使われた。例え話は誰でも気楽に聞けるが、読み解くのが難しく、その真意は、本気で真理を求める人にしかわからないという特徴がある。今日の箇所では、種がどこに落ちたかで結果が違ってくるという「4つの土地の例え」が語られている。種はみことばを表し、4つの土地は、人でもあり、状況や時でもある。この中で実を結ぶのは「良い地」だけで、あとの3つは種がまかれても実を結ばないと語られている。そしてその違いは、みことばをただ「聞く」だけなのか、「聞いて受け入れる」かにある。「聞く」のは自分が主体だが、「聞いて受け入れる」のはみことばを主体とすることなのだ。
 また、「良い地」とは耕された土地でもある。私たちの心を耕し、良い地にするための非常に有効な方法として、「みことばの分かち合い」をお勧めしたい。ディボーションの継続は1人では難しいが、分かち合うことでみことばの理解が深められ、互いに学ぶことができるからだ。
 先般、奉仕者研修会で講師に来てくれた渡辺睦夫先生が「おしゃべりの祈り」について教えてくださった。祈りは神との会話であり、私たちが普段人とおしゃべりをするように、何気ないことや、正直な自分の思いを話して良いのだということ。クリスチャンにとって祈りとは、一方通行のものではなく神との対話を楽しむことであり、神は私たちとの交わりを喜び、待っていてくださるお方なのだ。
 みことばの分かち合いや祈りを通して自分の心を耕し、みことばを「聞いて受け入れる」良い地となれる私たちでありたい。

「杖を投げる」 出エジプト4:1~5 [礼拝メッセージ]

4月30日礼拝メッセージ(川端伝道師先生)より
0430.jpg
 使徒7章でステパノがモーセの生涯を40年ずつ3つの時代に分けて概観した。最初の40年,ユダヤ人であるモーセはエジプトの王宮でエリート教育を受け,「自分が何者かである」と思っていた。しかし,同胞ユダヤ人を助けるために立ち上がったが,拒絶され,挫折を味わい,エジプトを去る。次の40年,ミディアンの地で羊飼いとなり,家族を持ち,「自分が何者でもない」ことを学んだ。最後の40年,「神が,何者でもない自分を用いて下さるお方」であることを見出した。80歳でイスラエルのリーダーとしての召しを受けた。この時モーセは謙遜で神様の言葉に従うことのできる者に変えられていた。モーセはイスラエル人を率いて出エジプトを果たすが,約束の地を目前にして生涯を閉じた。
 「何者でもない」と自覚していたモーセは,召命を断ったが,神様は「手に持っているものは何か」とたずね,御業を見せるために,モーセの杖を蛇に変えた。羊飼いなら誰もが持っていた杖が,神様が用いる時,特別な杖になったのだ。
 私たちが手に持っているものは何だろうか。特別な能力や経験でなくても,神様が用いて下さるとき,特別なものになる。この教会の多くの人が,教会の祝福のために自分の杖(経験,能力,時間,労力など)を惜しみなく主の前に差し出してこられた。私はそういう信仰の先輩の姿を幼いときから見て育ったので,神様の召しに応え,主に仕えようと思った。
 新約聖書の「5千人の給食」の中にも,わずかなものを差し出すと,神様が幾倍もの恵みを増し加えてくださったことが書かれている。パンと魚を持ってきた少年から2つのことを学ぶことができる。1つは,自分にできる精一杯をささげたこと。もう1つはイエス様の話を聞きその愛を知り,「このお方の望まれていることをしたい」と思ったこと。
 私たちも,御言葉を通して御言葉に養われる歩みの中で,喜んで主に従っていく者へと作り変えられていくことをますます祈り求めていきたい。

『神の家族のしるし』 マルコ3:20~35 [礼拝メッセージ]

4月23日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
0423.jpg
 律法学者、パリサイ人たちはイエス様の起こした奇跡のみわざをサタンの頭ベルゼブルの力によるものだと糾弾した。誰が見てもイエス様のなさったことは救い主メシヤによるものであることは明らかであるのに。彼らはイエス様の影響を怖れ、冒涜し、亡き者にしようとした。しかしこれをイエス様は論破された。「何故悪魔が悪魔を追い出そうとするのか。悪魔の国が内部分裂し滅んでしまうではないか」と。
 内部分裂ということで考えさせられることがある。旧約の時代、エジプトから逃れたユダヤの民たちは約束の地カナンを攻めようとした。民たちのうち12人が斥候としてカナンに遣わされた。そのうちの10人は「彼の地は素晴らしい土地だ。住民は強そうで守りも堅い、攻めるのは難しい、とても私たちには勝てない」と。しかしヨシュアとカレブは「攻めるのは難しい、でも、神様が共におられるので必ず勝てる」と言った。
 ある脳科学者によると、使った言葉がその後の行動に影響を及ぼす。ニューヨーク大学の実験で、マイナスな言葉ばかりを使ったグループは、そうでないニュートラルな言葉を使ったグループに比べて、身体の動きが遅くなったという。だから言葉の使い方には気を付けるべきである。愚痴やマイナスな言葉が口癖になったある女性に、この脳科学者が「でも」を千回言うようにおすすめした。女性は初めは馬鹿馬鹿しいと感じたものの、そう言うようにした。嫌だと感じることがあるたびに「でも、花がきれいだ」「でも、美味しいパンがある」など。その女性は世界の見え方が変わり、美しいこと、良いことに焦点を当てるようになった。すると短期間で別人のように明るくなったという。大切なのはマイナスからの「でも」でプラスに変換することである。
 さて、イエス様を冒瀆した律法学者、パリサイ人たち、これが聖霊を冒瀆する罪である。彼らの罪は許されるものではない。父なる神様は彼らに裁きを下された。西暦135年、ユダヤの民たちはイスラエルを追放された。流浪の民となり各地で迫害に遭った。1948年にイスラエル建国となるまで実に1800年間さまよったのである。
 聖書のみことばで「あなたの父と母を敬え」とあるように、私たちは自分の家族を大切にするべきだ。しかし、神のみこころを行い、信仰で結びつく神の家族を、イエス様は大切にされている。私たち松原聖書教会は三年ぶりに奉仕者研修会の会場となる。このためにお菓子を作ってくれた婦人たちがいる。本日集まる信仰の家族を喜んで受け入れよう。




「わたしが選んだのです」 マルコ3:13~19 [礼拝メッセージ]

4月16日 礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
0416 (2).jpg
Ⅰ.十二使徒を選出
 まず、二つある選びの理由を確認したい。
 イエス様が地上におられたときは時間と空間の中で限られていた。が、この福音は全世界に届けられ続けられなければならなかった。使徒の働きはイエス様の御業、福音を継承し、拡大すること。そのために12人は選ばれた。
 次は選びの目的。100%神であり100%人であったイエス様は弟子たちに「私はもうあなた方の事を僕とは呼びません、私はあなた方を友と呼びました」とおっしゃった。自分の働きを共有して共に担ってくれる、共に分かち合うことのできる友が、イエス様でさえ必要であった。また、御傍において弟子訓練をして学んだら派遣し、宣教させ、彼らに悪霊を追い出す権威を与え、延べ伝えさせるためであった。

Ⅱ.多様性と統一性
  選ばれた人たちはどういう人たちであったか。
 一番弟子のペテロ。12弟子のリーダーなのに弟子たちの中で最もおっちょこちょいキャラ。自己顕示欲の強いヨハネ。自分が一番主に愛されていると堂々と言ってのける。目立たないがイエス様と人々をつないだ忠実なアンデレ。12人がそれぞれ個性に富み、多様性が豊かであった。同時に統一性もあった。ローマの為に働いた取税人のマタイとローマ人に憎悪を燃やす熱心党のシモンが同じ弟子の中に加えられていたと、なぜこんなことが可能だったか。それは(あの人もこの人も)イエス様によって選ばれた人たち、これが統一性。イエス様にあって統一性の為に必要なことの一つは、他の人に対する尊敬である。その人のよい資質を認めて尊重すること。人間には長所もあり、短所もある。その長所を認めて積極的にそれを言葉に出して表現してあげる、そのとき人間として尊重されたことになって相手との関係が良い方向に変えられていくという。私たちもチャレンジしたい。

Ⅲ.三人の側近
 イエス様が特に目をかけていたヤコブ、ペテロ、ヨハネ。それぞれ主イエス様の生涯と十字架と復活の証人として活躍する期間はヤコブ14年間、ペテロ37年間、ヨハネは70年間である。なぜこれだけ違うのか。パウロは聖書の中で「私の願いは世を去ってキリストと共にいることです。しかしこの肉体に留まることがあなた方のためにはもっと必要です」と言っている。これがクリスチャンの死生観である。それはこの地上でイエス様が願っておられることを実現し、そしてその役目を終えたらイエス様のおられる天の御国に帰るということ。それもまた主の主権のうちにあるということなのだ。