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『人の思いをはるかに超えて働かれる方』マルコ5:21~43    [礼拝メッセージ]

6月11日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 会堂司のヤイロの大切な娘が病に倒れ死にかけていた。ヤイロがイエス様の足元にひれ伏し娘の病気を癒しを懇願した。途中、婦人病を患っていた女性(長血の女)の癒しに時間を取られ、その間に娘は亡くなる。娘が亡くなり、ヤイロの信仰の灯が消えかけた時、イエス様は「恐れないで信じていなさい」と励まされた。そして、イエス様が娘に声を掛けると生き返る奇跡が起こる。イエス様が長血の女に時間を割いたのは、一刻も早く娘を癒して欲しいヤイロの苛立ちも全てわかった上で、神様の栄光を表す為にあえてした事。もうだめと諦めかける時ほど、その解決が与えられた時に主の栄光があらわれる。
 エホバの証人の教理に関心をもった人が、聖書の学びもしてみたいと、我が教会を訪れ牧師との学びを始めた。平行してエホバの証人の学びもしていたので、学びの都度、双方の教理で揺れ動き、学びの長期化で当人も牧師も疲弊し学びを中止したことがある。その当人は、当時の放送されていたドラマの登場人物が信仰を失いかた時に信仰を取り戻すきっかけの言葉を聴き、自分に語られているように感じた。そして聖書の学びを再開し、不思議なほど聖書の真理を素直に受け入れ、エホバの証人の教えが間違えにも気づき、信仰をもった。霊的開眼のきっかけはテレビドラマのセリフであった。不思議なご聖霊の働きで、何が用いられるかわからないことがわかる。もうだめと思う時、人間的には不可能な時こそ、主の栄光は一層引き立ち、褒め称えられる。
 祈りがかなえられない時、どう捉えるかを考えたい。40歳のモーセはエジプトの王子の座よりエジプト人に虐待されている同胞イスラエル人を救おうと、必死に祈って行動したが失敗し荒野に逃亡した。祈りがかなえられず失敗したのは、モーセの時では無かったからだ。聖書はへブル人への手紙の中でモーセのこの行動を称賛している。神が喜ばれるのは、人柄や能力でなく信仰である。たとえ、その時叶えられなかったとしても、信仰の祈りはこの世の富に勝る永遠の報いとなって天に積まれる。その祈りを神様は心から喜ばれる。だから、私達は諦めず祈りを捧げ続けたい。