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『誤解、偏見、先入観』マルコ6:1~6 [礼拝メッセージ]

7月16日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 イエスがイザヤ書で予言されたメシヤであることを、郷里ナザレの人々は信じることができなかった。それは「この人は大工ではないか。マリアの子で…」という言葉からわかるように、昔から知っているイエスが、人間を超えるものだとは信じられないという誤解や偏見、先入観が邪魔をしたからであろう。このように、家族や親族への証しは、関係が近すぎるが故の難しさがある。
 イエスは私たち一人一人に「あなたはわたしをだれだと言いますか」(マタイ16:15)と問いかけている。「3分でわかる聖書」の著者の中川健一牧師によると、イエスの実在について疑問を挟む学者はいないという。しかし、イエスが単なる人間だとしたら、「偉大な教師」や「聖人」などという評価はあり得ない。なぜならイエスは、自分を神だと宣言し、ユダヤ人たちから神を冒涜する者として処刑されそうになっても、その主張を変えなかったから。つまり「イエスがだれか」という問いに対する選択肢は「①人となられた神②問題のある人」の2つしかない。私たちもペテロのように、聖霊によって「あなたは生ける神の子キリストです」と告白したいものである。神でなければ私たちを救えないし、人でなければ私たちの罪の身代わりとなることはできないのだ。
 次にイエスの人を見る目について、2つのポイントから考えてみたい。まず、私たちは人の良い所より欠点に目をとめやすい。しかしイエスは、人の長所を見る。それは私たち一人一人が神の作品だから。人間関係を良くするポイントは、神がその人に与えている賜物や長所を見つけ、ありのまま表現してあげることである。
 次に、イエスはその人の過去や現在だけではなく、将来を期待して見る。ペテロはイエスが捕らえられた後、イエスを知らないと否定する大きな失敗をしたが、悔い改めて立ち直り、イエスの証人としての生涯を送った。それは「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」というイエスの祈りがあったから。サタンはペテロの失敗で彼を挫こうとしたが、イエスは逆に、ペテロが自分の弱さを知り、主に依り頼む信仰を学ばせるために、なくてはならない訓練とされた。私たちが何度失敗しても、主の選びは変わらない。失敗によって痛い思いはするが、その経験を通して、ペテロのように主の器へと変えていってくださる。過去にとらわれず、現在だけがすべてとも思わず、将来に期待する目で私たちを見てくださるイエスのように、私たちもまた人を見ていきたい。