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『選択と責任』マルコ 6:14~29 [礼拝メッセージ]

8月6日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 神の国を宣べ伝え、様々な奇跡を行うイエス様の名が知れ渡り、ヘロデ王の耳にも入った。ヘロデは自分が不当に殺してしまったヨハネが化けて出てきたのではないかと怯える。
 ヘロデは自分の妻を追い出し、兄弟ピリポの妻ヘロディアを奪って妻としていた。しかもヘロディアは姪であり近親結婚でトリプルの罪を犯していた。ヘロデは、その罪を勇気をもって糾弾するヨハネは邪魔者だ、しかしヨハネは聖なる人で、その教えには納得せざるをえない、と二つの思いに揺れていた。ヘロデは①王を糾弾するヨハネを野放しにはできない、②ヘロディアからヨハネを守る、この二つの理由からヨハネを牢につないでいた。しかし、まことの神の前では二心は通用しない。必ず選択を迫られる時が来る。ヘロデは自分の誕生日の祝宴で踊りを披露したヘロディアの娘に「何でもほしいものを与える」と誓ってしまう。この時とばかりにヘロディアは娘に「今すぐにバプテスマのヨハネの首を盆に載せていただきたい」と言わせる。ヘロデは体面もあり「ノー」と言えず、ヨハネの首をはねさせた。たとえ権力者であっても、人は罪の前にみじめな存在である。
 私達は「イエス」と「ノー」が言えるようになりたい。 ヨハネは自分の命を危険にさらしてでもヘロデの罪を指摘した。それはヘロデを悔い改めに導くためでもあった。主から与えられた責任と、本当に相手のためを思うなら「ノー」と言わなければならない時がある。ヨハネがヘロデの不正を咎めた動機は怒りであった。聖書は「怒っても罪を犯してはならない」と言う。怒ってもいい。喜怒哀楽は神が人間に与えて下さった感情である。ただ怒りのままに行動せず、時間をおいて話し合うなど怒りのコントロールは必要である。
 ヘロデはヨハネを殺したくなかったが、後に引けなくなりやってはいけないことをやってしまった。 ヘロデが大恥をかいても「神が送られたヨハネを殺すことはできない。ごめん」と謝ったなら、罪の呵責に一生悩むことはなかったであろう。 
 私達も「あの時ああすれば良かった」と示されることある。正直に悔い改めて、赦しをいただきたい。「ノー」と言うべき時に「ノー」と言える勇気・知恵・力が与えられるように、どんなに大恥をかいても間違った時は頭を下げる勇気が与えられるように祈っていきたい。