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「世界中を騒がせて来た者たち」使徒17:1〜9 [礼拝メッセージ]

10月6日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 伝道旅行を続け、テサロニケにあるユダヤ人会堂に入ったパウロは、いつものように聖書に基づき「イエスこそキリスト」であると論じる。しかしユダヤ人にとって、待ち望んでいた救い主が、十字架で死んだということを受け入れるのは、非常に難しいことであり、これは一般的にもそうであろう。今も昔も人々が宗教に求めるのは、不思議な印やご利益、あるいは生きていく上での知恵等であるからだ。もちろんイエスがそれらを与える力を持っていたことは、十字架にかかるまでの生涯で証明済みである。しかし、人間にとっての本当の救いは「罪による死」からの解決にしかなく、父なる神は、一人子であるイエスを世に送り、私たちの罪を贖うために十字架にかけるという、驚くべき方法をとられた。人の目には愚かに見えるような道を通して、救いを与えてくださったのだ。

パウロの言葉を聞いて、幾人かのユダヤ人、神を敬うギリシャ人、貴婦人たちがイエスを信じたのに対し、他のユダヤ人はねたみにかられ、パウロたちを潰そうとした。これは、自分を変えようとせずに相手を変えようとする態度であり、ルカ10:38〜42に出てくるマルタにも当てはまる。イエスをもてなそうと、気が落ち着かずに動いていたマルタは、妹のマリヤが自分を手伝わずに、イエスの話に聞き入っていることに腹を立てる。これもまた、ねたみによるものであり、マルタはマリヤを変えようとしたのだった。私たちは一人一人違って良く、自分にできることでイエスに仕えれば良いのである。

 テサロニケの人々は、やがて模範的なクリスチャンへと成長していくが、それを支えたのは、イエスの再臨への希望だった。救いの門が開かれているのはその時までであり、マタイ25:14〜30のタラントの例え話のように、主人の帰還により、各自の働きが清算される時がくる。大切なのは、自分に与えられているタラント=賜物を活かす、用いることであり、賜物の大小や種類は関係ない。また、賜物のない人は一人もいない。たとえ小さな賜物であっても、コツコツ積み上げていくならば、加速度的に大きな働きになっていくし、たとえ苦しみや悲しみの体験であっても、主にあって、他の人の痛みに寄り添うことのできる賜物へと変えていただくことができるから。主は必ず帰って来られる。その希望を胸に、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言っていただける歩みを送っていきたい。