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「真理は、あなたがたを自由にします」使徒16:16〜18 [礼拝メッセージ]

9月1日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 この女奴隷は、占いによって主人たちに多くの利益を得させていたということだから、その占いがよく当たったということだろう。しかしそれは悪霊によるものであった。パウロたちが話している横でこの女が大きな声で叫び続けるため、メッセージにならなかったように、悪霊はなんとか福音が伝わらないようにしようと、躍起になって妨害してくる。しかし、イエス・キリストの名は悪霊を追い出す力を持ち、イエスの権威の前には、サタンは太刀打ちすることができない。この女も、イエスの名によって悪霊から解放され、それによって奴隷という身分からも自由にされた。一般的に「クリスチャンになると、してはいけないことが増えて不自由になる」というイメージを持つ人が多いが、これは大きな誤解であり、むしろ縛られているものから解放され、自由になるのだ。
もうひとつ、誤解されやすいこととして、高慢と謙遜について考えてみたい。神の恵みには、クリスチャンかそうでないかに関わらず与えられる一般恩恵と、クリスチャンだけに与えられる特別恩恵がある。一般恩恵しか知らなければ、成功した時は「自分の力」だと思う。だから、それを隠すことが謙遜であり、誇ることは高慢だと考える。しかしクリスチャンは違う。成功したことは自分の業績ではなく、神の恵みだと知っている。だから、それを隠すことが謙遜なのではなく、むしろ大いに証しし、神に栄光を帰すのだ。これは高慢とは違う。
「恵み」とは、神が与えてくださる一方的な恩恵であり、エペソ2:8にあるように、私たちの救いも神の恵みによる。それは理解していても、救われた後の信仰生活については、自分の力で頑張らなければいけないと考えている人がいるのではないだろうか。これも誤解である。イエス・キリストの十字架による罪の贖いは、過去と現在だけのためではない。イエスを信じた時点で、未来も含めた一生涯の罪を、全部負ってくださるのだ。もちろん罪に気がついたら、その都度悔い改めることは必要である。しかし、罪を犯してしまったからといって、神に見放されたり、罰を与えられるようなことは決してない。そのような思いは、人間を神から引き離そうとするサタンの罠である。救いが恵みであるのと同じように、信仰生活もまた、恵みによって歩むことが大切なのだ。イエスが世に来てくれたのは、私たちを自由にするためなのだから。