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「失くした銀貨とは」ルカ15:8~10 [礼拝メッセージ]

12月1日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 人の評価の基準は大きくわけて三つある。
①doing(行為)
②having(属性・持ち物)
③being(存在)。
 世の中は①②の評価ばかりである。何をしても、どんな身分になっても誰かが自分を受け入れてくれるという精神的なセーフティネットがあってこそ、初めて人は誠実になれるし、それによって人に好かれる。たとえ親が評価してくれなくても、私達の創造者は「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)と私達の存在そのものを愛してくださる。 
 お金と物は価値の決まり方が違う。物はどれだけ役に立つかで価値が決まる。1万円の原価は22円だが日本銀行が宣言すれば1万円の価値を持つ。人間の元素は土とほとんど同じで原価300~400円。にもかかわらず人の命は地球よりも重い。創造主が「我々に似るように我々のかたちに人を造ろう」といのちの息を吹き込まれたからである。古くても、しわや破れがあっても1万円は1万円。 本来人間もそれと同じであるとイエス様は言いたいのである。女の人は真の神、銀貨は私達。私達が真の神から離れて生きるなら、どんなすばらしい価値・目的を持っていても、その目的を果たさず一生を終える。お金は自分から戻ってくることできない。人間が探す以外にない。同じように失われた銀貨である私達を取り戻すためにイエス様を送ってくださった。「人の子は失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ19:10)
 お金は使われてこそ生きる。 私達も真の神に戻った時、御手の中で真価を発揮することになる。幕末生まれの極悪人・好地由太郎は牢獄でイエス様に出会い、救われて模範囚になり、見違える人に変身した。私達も隣人の必要に応え、イエス様の恵みを人々に伝えることできる。
 心の問題となると誰もみな罪人、と聖書は言う。神は人を愛して止まない。しかし、罪ある人間をそのまま受け入れることは神の正義が赦さない。だから、神であるイエス様が人間の姿をとり、そのあり方を捨てて、私達の身代わりに十字架につき、罪の借金をすべて支払ってくださった。イエス様は私達、人間のレベルにまで降りてきてくださった。クリスマスとは真の神が人への大きな犠牲を払ってくださったということである。私達もイエス様に倣って、相手に合わせ譲ることのでできる人になりたい。