SSブログ

『放蕩息子』 ルカ15:11~24 [礼拝メッセージ]

12月8日礼拝メッセージ(中村牧師先生)より

IMG_0989.jpg

 本日の箇所は「放蕩息子の例え話」についてであるが、私自身もこの弟息子のようにクリスチャンホームに育ち、恵みに溢れた環境にいながらそれを恵みとも思わず、洗礼を受けた後に神様と教会から離れた。自動車塗装の職人として一生懸命に励んだものの、頑張ればその分自分に返ってくる、自分の力で何でもできるんだ、と思いあがっていた。そして独立し自分の工場を持てたのだが、うまくいかなくなり、次第に追いつめられていった。
 そんな中「エホバの証人」の信者と出会い、聖書の知識を得たいとの思いから、彼らから学びを受けることになった。しかし私は、次第にその教義に疑問を抱くようになる。そんな私を心配した両親は、松原聖書教会のチラシを渡し、礼拝に行くように勧めた。両親の手前、「三回は行くことにするが、それ以降はやめよう」と打算的な思いでいた当時の私だったが、その三回目の礼拝メッセージに心打たれたのだ。それがこの「放蕩息子」の箇所だった。
 その時の私は、教会から離れた私に対し神様はどれだけお怒りになっておられるだろう、と恐れを抱いていた。しかしそのメッセージから、そうではないんだ、神様はこの父親のように、私がここに戻ってくるのを、心待ちにしておられたんだ、神様は一度掴んだ手を、決して離さないお方なんだと確信した。と同時に、イエス様に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 もう一つ、その頃心打たれた証しがある。クリスチャン新聞に掲載された、救世軍の創始者ウイリアム・ブースの夢の話だ。彼が見たのは、十字架にかけられたイエス様と、そのイエス様の手に釘を打ち直し、ニヤリと笑うブース自身の姿だった。
 自分の罪の重さをハッキリと自覚し、イエス様の十字架の贖いは「みんなのため」ではなく、「自分のため」だと真に理解した。その年のクリスマスに転入会に導かれた私は心から、「この方について行きたい」「この方が『やれ』と言われたことを行い、この方が『行け』と言われた所に行こう」と決心した。イエス様の願われることに精一杯誠実に応えたいという思い、それが私の信仰の原点だ。
 イエス様が罪にまみれたこの世界に降りて来られた、そして私たち一人一人をその中から捜し出して下さった、それがクリスマスだ。私たちに生きる希望を与えて下さった主の恵み、感謝してアドベントの時を味わおう。