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「太宰治と聖書」使徒17:22〜27 [礼拝メッセージ]

11月17日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 38才で愛人と入水自殺をした太宰治は、聖書を熟読していた作家として知られており、作品中にも、聖書からの引用が91箇所も出てくる。しかしその内訳は、79箇所が新約聖書からであり、さらにはその内の62箇所がマタイの福音書から、そしてその内の26箇所が「山上の垂訓」からの引用となっている。ここから分かることは、太宰治の聖書の読み方には偏りがあり、旧約聖書をあまり読んでいないということだろう。旧約を読まなければ「創造主なる神」が分からず、イエスの十字架の恵みも本当には分からない。
 旧約の創世記には、神がこの世界を創造したとはっきり書いてある。そして、人間は「神のかたち」に造られ(1:27)、「いのちの息」を吹き込まれた(2:7)とある。つまり人間は、三位一体の神との人格的な交わりができる唯一の存在として、命の息すなわち「霊」を持つ存在として造られたということ。ところが神の信頼を裏切り、善悪の知識の実を食べたことによって、神との関係が切れてしまった。そんな人間のために、神の側から救いの道を開いてくださったのがイエスの十字架なのだ。だから私たちは、どんな大きな痛みや精神的負債があったとしても、創造主なる神と出会う時、その愛によって癒されることができる。
 太宰治が、少ないながら愛唱した旧約の聖句に「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。(詩篇121:1)」があるが、この箇所だけで終わっている。これに続く「私の助けは、天地を造られた主から来る。」が抜けており、神との出会いがない。詩篇はユダヤ人がエルサレムへの巡礼の旅をしながら、みんなで応答し合って読んだものであるように、聖書を正しく読むためには、教会に行くことが必要である。そうすれば、独りよがりや誤解から守られる。もし太宰治が教会で聖書を学んでいれば、人生は違うものになっていたのではないだろうか。
 私たちの教会では、牧者が家を開放し、そこに人々が集まる「家の教会」に取り組んでいる。それは、初代教会が「家の教会の集合体」だったから。これが大いに用いられ、聖霊の働きによって、ローマ帝国をも動かす勢いで、キリスト教が広がっていったのだ。教会の敷居は高いと感じる人も、家庭での食事の交わりになら参加しやすいだろう。
 パウロがピレモンへの手紙1:5で「主イエスに対してあなたが抱いている信仰と、すべての聖徒に対するあなたの愛とについて」感謝していると書いている。神に対する「信仰」と、隣人に対する「愛」はどちらも大切であり、家の教会はまさに、この2つの実践になる。初代教会の原点に立ち返り、主にあって、未信者をVIPとして家の教会に迎え入れていきたい。