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『ミナの活用』ルカ 19:11~27 [礼拝メッセージ]

3月21日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 このミナのたとえ話は、イエス様がいよいよローマを打倒し国を再興されるのではないかと人々が期待をふくらませている時に語られた。神の国は見える形では簡単には現れない。人間の不幸の原因である罪の解決のためにイエス様が十字架にかかり、死んで復活し、福音が全世界に知らされた後に再臨がある。その時に神の国が現れるのである。身分の高い人とはイエス様のこと、十人の僕とは弟子たちのこと、彼を憎む人とはイエス様を拒む人達のことである。ミナとは信仰のことで、信仰を十分に働かせて活用しなさいと教えている。皆1人1ミナもらい、ある人は10ミナ、ある人は5ミナ儲けた。儲けの違いは信仰的な物の見方をするかどうかの違いである。1ミナのままの僕は主人が戻って来ると信じなかった、あるいは怠け者で自分の好きなように暮らした。イエス様の再臨を信じられないなら信仰はいい加減なものになる。このたとえは、①信仰を働かせて神に喜ばれ、神の国を受け継ぐ人 ②せっかく与えられた信仰を失い取り上げられてしまう人 ③神の国実現の時に滅ぼされてしまう人 の三種類の人に分けられる。
 解釈の仕方で結果・行動が違ってくる。例えば、A.一生懸命頑張ったのに評価されなかった→B.自分はこの仕事に向いていない→C.仕事辞める、キャリア途絶える。ところがA.→D.どんな成功者も初めは失敗する→E.次はやり方を変えてみる、経験積み重なる と解釈を変えると結果は全く変わる。イエス様は「この人が盲目なのは、この人が罪を犯したためか、それとも両親の罪のためか?」との問いに「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない。この人に神のわざが現れるため」と答え、盲人を見えるようにされた。このイエス様の答えにどれだけ多くの人が慰められ救われていることだろう。
 先週、川端神学生が「自分は信仰第二世代で第一世代が羨ましかったが、プロセスよりも救われている事実こそが恵みなのだと目が開かれた」と語っていた。私は第一世代だが二世三世が羨ましい。親の救いのために祈る必要もなく、信仰への無知による誤解・偏見・反対・摩擦もない。クリスチャンホームは親子でみことばを分かち合い、共に考え祈り、教会の出来事を共に喜び悲しむこと、重荷を共有することができる。 
 イエス様の再臨の時、あるいは私達が天に帰る時、私達は信仰をどう働かせたかが問われる。信仰の目を持って見る私達、主に喜ばれる私達とさせていただきたい。