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「自分のことだけ考えると滅びる」使徒9:32〜43 [礼拝メッセージ]

7月29日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 私たちクリスチャンには、自分でどうすることもできないことは神に依り頼むことと同時に、自分でしなければならないこともある。例えばパウロは、イエスの奇跡によって救われたが、その後クリスチャンとして活動するためには、アナニヤとバルナバの助けが必要だった。そのように、神の力と人間の責任の、両方が大切である。
ペテロは人間の側の責任として、「あらゆる所を巡回した」とある。ここから分かることは、彼は示されたらすぐに実践する行動力を持っていたということと、自分たちの教会さえ祝福されれば良いとは思っていなかったこと。イエスの願いは、クリスチャンがあらゆる所に福音を持って出て行くことであり、自分の教会のことしか考えないマイチャーチ主義は、みこころとは違う。当教会では、各牧場ごとに宣教地への祈りと経済的支援を行っているが、このことを通して、松原にいながら世界宣教に携わることができるのだ。
 36節に「ヨッパにタビタという女の弟子がいた」とあり、彼女の葬儀で、やもめたちがみな泣いていたとある。弟子とは「主の思いを自分の思いとする人」であり、言い換えるなら「神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する」という3つの愛に生きる人、特にイエスがそうされたように、弱い人に仕える人であろう。葬儀は人生のスクリーンのように、その人が生前どのように生きたかを写し出すが、まさに、タビタが主の弟子として生きたことがよく分かる。
 では彼女は、具体的には何をしたのだろうか?それは、貧しいやもめのために「針仕事」をして、下着や上着を作ってあげたことだった。針仕事は小さなことかもしれないが、神に用いてもらった時、大きな働きとなって、弱い人たちの慰め、励ましとなった。だからこそ、タビタの死に際して周りの人たちは、ペテロを呼びに走った。そして彼女は死から蘇らされ、イエスの生きた証人となったのである。
 神はモーセをエジプトに遣わすとき、「あなたの手にあるそれは何か」と尋ね、「杖です」と答えた彼に、その杖を用いて、ご自身の業を現す力を与えられた(出エジプト記4:2〜5)。タビタの場合は「針と糸」であろう。小さなものでも構わない。「私の手にあるものはこれです」と、イエスに差し出すならば、それぞれの持っているものを主が豊かに用いてくださるのだ。当教会では、地域に仕え、共に生きる実践として、10月から「ジョイファミリー子ども食堂」をプレオープンする。この働きのためにも、ぜひそれぞれの「杖」や「針と糸」を、大いに用いてもらいたい。