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「覚えていなければならない」申命記5:15

5月27日礼拝メッセージ(中村牧師先生)より
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申命記は、イスラエルの民を忍耐をもって、荒野で40年間導いてきた神が、いよいよ約束の地を前にし、モーセを通して改めて、命令を確認するために書かれたものである。そして、5章3節に「主が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである。」とあるように、神は私たちひとりひとりを大切な存在として、人格的なつながりと、私たちの人生に責任をもって関わってくださるお方である。そして、キリストを磔にしてでも救いの道を開いてくださったように、燃え立つような情熱をもって私たちを愛してくださっているお方である。十戒の命令の前文に「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。(出エジプト20:1)」とあるように、神が私たちを愛し、連れ出し、ここまで導いてくださったことを忘れてしまうと、強制や束縛と勘違いしてしまう恐れがある。そうならないために、改めて神の恵みを振り返ることが大切なのだ。

 聖餐式には「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。(Ⅰコリント11:24)」というイエスの言葉が読まれるが、これは申命記5:15で「イスラエルを奴隷であったエジプトの地から、主が連れ出されたことを覚えて、安息日を守るように」と命じられていることに通じる。旧約と新約はキリストによってつながっており、新約に生きる私たちも、罪の奴隷から救い出されたことを覚えて、礼拝を守るのである。
 私自身の歩みについて紹介したい。クリスチャンホームに生まれ、子どもの頃から教会に行っており、神の存在は当たり前のように信じていた。中2で洗礼を受けたが、今振り返ると「イエスの十字架は自分のため」という思いはなかった。そして中3の頃から教会に行かなくなり、ケンカやバイクに夢中になり、生活が乱れていった。自動車塗装の会社を始めてからは人生の厳しさも知り、評価もされるようになったが、「神はこんな自分を怒っているに違いない」という思いがあった。そんな中でエホバの証人との出会いがあり、話をするうちに、自分は聖書について何も分かっていないと実感させられた。神に背を向けてきた自分は滅びるしかないと思っていたが、何も分からないままなのは嫌だと思い,、エホバの証人と学びをするようになった。それを知った両親に言われて、仕方なく松原聖書教会に行き始めたのだが、これで最後にしようと思っていた3度目の礼拝で「放蕩息子」のメッセージを聞いた。そしてその時、自分は今まで神に見張られているように思ってきたが、実は神は、そんな私を愛して、私の帰りを待ち続けてくださっていたのだと分かり、目からウロコが落ちる体験をした。そんな神の愛に、自分の精一杯で応えていこうと決心して今がある。