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『聖霊こそ証人』 使徒5:12~32 [礼拝メッセージ]

3月18日、礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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ユダヤ当局は妬みに燃えて立ち上がり、使徒たちを捕らえ、留置場へ入れた。ところが、主の使いは彼らを牢から連れ出し「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」と励ました。
 ユダヤ当局はなぜこれほどまでに初代教会を妬んだのか?それは人々が彼らを尊敬し、ユダヤ当局を恐れながらも主を信じる者がますます増えていったからである。また、使徒たちによって多くのしるしと不思議なわざがなされたからである。現代に使徒たちはいない。が、人々に、目には見えないが確かに神がおられることを知ってもらうために、しるしと不思議が起こるように切に祈る。それは必ずしも病気のいやしとは限らない。親子・夫婦・人間関係のいやしも“しるし“である。 3/15幼児園の卒園式でご父兄から謝辞をいただいた。そこには先生方やお母さんたちとの交わり、子育てセミナーによって自分を受け入れてもらい、自分自身を受け入れ、子供を励まし、ご主人に感謝するように成長された証があった。地域貢献の一環としてやっている幼児園の働きが実を結んだ。
 信じた人達はみな一つ心になってソロモンの廊にいた。二万人は下らなかったと思われる。集団のパワー・エネルギーは大きなインパクトを与える。私達が一つ所に集まって礼拝することには、一般の人々に神の国を見せる意味もある。ますます礼拝を大切にしたい。
 「宮に立ち、いのちのことばを語る」ことには二つの目的がある。一つは信徒たちの養育のため、もう一つは伝道のためである。礼拝メッセージはこの二つのバランスが大事で難しくご聖霊の知恵が必要である。 補う意味での週報のコラムが用いられ、メッセージが適用されることを願う。
 大祭司は二つの点で使徒たちをなじった。①エルサレム中に教えを広めた点と、②イエスの血の責任を彼らに負わせようとしている点である。使徒たちは①は「人に従うより神に従うべき」、②は「十字架はのろいではなく、イエスは復活され祝福されたのだ。あなたがたも悔い改めてイエスを信じなさい。」と鮮やかに反論した。私達もイエス様を軽んじる者であったが、聖霊によって信じる者へと変えられた。伝道は知識をもって相手を論破することではない。伝道は私達の内におられる聖霊のなさることで、語らせるのは聖霊である。その人の人格・体験が用いられることもある。
 私達は主によって変えられた証人となって、松原中にイエス様の教えを氾濫させたい。