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「人生には三つのものがあればいい」使徒4:32〜5:11 [礼拝メッセージ]

3月11日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 この箇所の当時、クリスチャンは全部で2万人以上いたと思われる。当然色々な境遇、状況の人たちが集まっていたはずだが、持ち物を共有し、「必要に従っておのおのに分け与えられた。」とある。では自分の持ち物を全て売らなければ仲間に入れなかったのか、というとそうではない。5:4でペテロがアナニヤに「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。」と言っているように、自発的に、喜んで捧げていたのだ。イエス・キリストの恵みを受けることは素晴らしい。しかし、本当にその恵みを知った人は、主にあって今度はそれを、周りに与える人になっていくのである。
アナニヤとサッピラの夫婦が神に打たれることになったのは、地所の代金の一部を残しておいたことが原因なのではない。問題は「その値段で売った」と売値を偽ったこと、つまり「ごまかしても分からない」という、聖霊を欺く罪にある。彼らはバルナバと呼ばれていたヨセフの評判を羨み、自分たちの物欲と名誉欲のために、代金の一部を残しておいたのだった。彼らが打たれたのは、初代教会を建て上げる大切な時に、反面教師となる意味があったと考えられる。
私たちの中にも彼らと同じような思いがあるだろう。また、自分たちの土地を売ったお金のことで裁かれる必要はないと感じるかもしれない。しかし、その土地を私たちに与えてくれたのは誰なのだろう?ヨブ1:21「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。」とあるように、死後の世界に持っていけるものはひとつもない。この地上で私たちに与えられているのは「所有権」ではなく「使用権」であり、「どう使うか」が委ねられているのだ。地上の財産を、自分のためだけでなく、教会や隣人のためにも使うことは、イエスの願いを実現することと、天に宝を積むことにつながる。
 ある所で「人生には、希望、勇気、サムマネーの3つがあればいい」という文章に出会った。私の場合は「イエス、愛する人々、サムマネー」である。皆さんにとっての「3つのもの」とは何だろう?考えてみてほしい。