SSブログ

「神に立ち返りなさい」使徒3:11~26 [礼拝メッセージ]

2月18日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

0218.jpg




宮の門に座っていた生まれつき足のきかない男は、ペテロとヨハネに会い、イエスの名によって足が癒された。その後「この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に」とあるが、これは悪い意味ではなく、仲間になったということ。使徒2:47に「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」とあるように、イエスを信じる者は、共に労する同志、すなわち仲間となる。そしてこの意識は、お互いに対する信頼関係と、人の役に立っているという他者貢献に繋がる。足なえだった男は、イエスによって癒されたことを証しするという彼にしかできないことをした。これは賜物の活用であり、私たちは皆、それぞれの賜物を活用して用いられるとき、喜びがあふれてくるのだ。

足なえが立ち上がったのを見て非常に驚いた人々に向かって、ペテロは「なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」と言っている。足なえを立ち上がらせたのはペテロたちの力でも信仰でもなく、ただ「イエス」なのだということ。神を知らない人は、何かがうまくいったとき「自分の力」だと思うだろう。だからこそ「それほどではない」と謙遜する。しかしクリスチャンは、「志を与え、成し遂げてくださるのは主(ピリピ2:13)」だと知っている。だから大いに「主がさせてくださった」と神を誇り、自慢して良いのだ。

イスラエル人がイエスを十字架につけたことについて、ペテロは「あなたがたは、無知のためにあのような行ないをしたのです」と言っており、群集を責めていない。その理由は、彼ら自身も群集と同じく無知だったから。彼らが救い主に期待していたのは、政治的にイスラエルを救い出してくれることであり、だからイエスが十字架にかけられた時、希望を失ってしまったのだった。しかし21節に「このイエスは・・・あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。」とあるように、まず天国の門を開くためにこの世に来られ、万物の改まる時すなわち新天新地が開かれる時に、再び来られるのである。この再臨までの間だけが、救いのチャンスの時なのだ。
現代の日本も、ほとんどの人が三位一体の神を知らない。日本人がイメージする八百万の神と聖書の神の違いは、すべてのものをつくり、命を与えた「創造主」であるということ。それが分かれば、すべての人は神によって創造された故に平等であり、本当の意味でお互いの自由を認め合うことができるようになる。また神は人間には測れないお方であり、私たちクリスチャンも、まだまだ知らないことがたくさんある。そして神を知れば知るほど、感動させられるだろう。