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『ルネッサンス』  マタイ12:9~21 [礼拝メッセージ]

7月14日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

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 安息日とは本来神様が天地創造の7日目に全てを休まれこれを聖なる日とし、人間は神様を礼拝し心も体も休息する日である。しかし人間が勝手なことを付け加え本来の安息日の精神は全く失われてしまった。ここの箇所でイエス様が安息日に片手の萎えた人を癒されたのは、律法を否定的にのみ受け止めてきたパリサイ人に対して、良いことをするという肯定的な面から律法を行ったのである。
 安息日で分かるように、本来の意味が年月と共に全く違ったものになってしまうのは人間の弱さ、罪である。例えば、教会も使徒の働きにあるように初代教会の姿は宮に集まるだけでなく家でも礼拝することが、イエス様の望まれる姿であった。ところが月日が経つと教会は礼拝と祈祷会だけで月曜から土曜は普通の人と変わらないような生活になっていった。
 しかし14世紀にイタリアで起こったルネッサンスの流れの中で宗教改革が行われた。その三大原理は①信仰のみ②聖書のみ③万人祭司。しかし、この万人祭司は不十分なまま今日にいたっている。初代教会では信徒が祭司として用いられていた。家の教会は初代教会の回復である。私達も初めの約束を忘れていないだろうか、主にあってルネッサンス(原点に戻る)必要があるのではないか。
 イエス様は片手の萎えた人に手をのばすように言われ、彼がその通りにすると手は治った。信仰の祝福のポイントは手をのばすことにある。私は祈りが苦手な牧師だが今祈りにチャレンジしている。また9月からシングル牧場、道シリーズの学び、子育てセミナー、サタデーナイトをするが、これらはイエス様から手をのばしなさいと言われたことで、その時イエス様からの祝福に預かりたいと思っている。
 さて、注意しなければいけないのはパリサイ人のような律法的な信仰である。ディボーションをとってみると肉に属する人と御霊に属する人は目標が同じようであっても動機が全く違う。罪悪感や不安によるところのディボーションではなく、その原動力は何とか神様の愛に応えていきたいものであり、この差はとても大切である。イエス様の願っておられることを実現するために私達は一人一人召された。賜物(必要な力)は従うこと、祈りを通して上より与えられる。ぜひこの召しに応えて信仰をもって手をのばしていただきたい。