SSブログ

『さばいてはいけません』 マタイ7:1~5

7月22日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
0722.jpg

 「裁く」という言葉には「分析する、評価する、価値判断を下す」という肯定的な意味と、「見下げる、非難する、中傷すると」いう否定的な意味がある。ここでの「裁いてはいけません」は同じ信仰者に対する否定的な意味のことである。しかし人を裁かないということは人に対して一切の価値判断をしないことではなくしっかり分析、評価するべき所はすることである。問題は自分の事を棚に上げて他人の欠点ばかりに集中する所にある。イエス様は、「自分の目に梁があるのにどうして相手の目のちりを取らせてくれというのか、まず自分の目の梁を取り除けなさい」と表現されている。

 次になぜ裁いてはいけないのか。それは裁く者が真の神様と他の人から裁かれるからである。例としてサラを裁いた女奴隷ハガルは、サラだけではなく神様から自分が裁いたようにお取扱いを受けなければならなくなった。
 またダビデの例からも,ナタンの話に怒り、裁いたダビデもナタンから罪を指摘され罪を悔い改めたが、蒔いた種を刈り取らねばならなかった。しかし私たちもダビデを裁ける者ではなく、ただ神様の恵みの中で誘惑から守られているだけである。私たちはまず自分の目の梁を取り除くべきである。

 では,どんなことで裁きやすいか。人は誰しも他の人の欠点を捜して相手よりも一段高い所に立って他人を裁きやすい傾向にある。その代表として酒、たばこに関しては、聖書はYesともNoとも言っていない。いずれにしても信仰の弱い人のつまずきにならないように、またイエス様の徳が讃えられるようにというのがポイントである。またこの教会には愛がないという人がいた場合、自分を棚に上げて教会員にも拘わらず他人事のように批判するのではなくどうしたらイエス様に喜ばれるのか、対応すればいいのか考えていただきたい。愛は事柄を暴露するのではなく解決のために、真実は事柄を裁いて破壊するのではなく真理を明らかにして立て上げることが目的である。主にある兄弟姉妹として相手を責めるのではなく同じ主にある兄弟として、連帯の責任を負い共通の痛みを分かち合うことができるように。
 イエス様は「相手の目からちりを取り除いてはいけない」と言っているのではなく、「まず自分の目から梁を取り除けなさい、そうすればはっきり見えて兄弟の目からもちりを取り除くことができる」と言われておられるのである。