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『出・あい』 ヨハネ1:9~14 [礼拝メッセージ]

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12月15日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

ラジオ伝道をしている関根牧師が、こんな話をしていたことがある。ある宿に泊まった時、ベランダに鳩がうずくまっていたのでよく見ると、足に釣り糸が絡まり、羽が傷ついていたそうだ。牧師は糸を取ってやろうと思って近づいたが、鳩は必死に逃げ回り、追いかけて何とかつかまえて手当てをすると、すぐに飛んでいってしまったという。鳩が逃げたのは、治療したいという牧師の気持ちが分からなかったからであり、もし牧師が鳩になれたら、理解しあえたかもしれない。しかし、なれないし、なりたくないと感じたという。私たちもそうだろう。ところがイエスは、「神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。…自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ビリピ2:6~8)」とあるように、私たちを罪から救うため、天を出て、この地にきてくださったのだ。

アダムとイヴが善悪の知識の実を食べたのは、神のようになりたいという欲望からだった。人間の本質は、創造主である神を認めようとしない自己中心であり、自分の全てを見られるとしたら、罪がないと言える人は一人もいないだろう。そして「罪から来る報酬は死です(ローマ6:23)」とあるように、全員が滅びるしかない存在なのだ。そんな私たちの罪の身代わりのために死に、復活によって死を打ち砕くために、この世にきてくださったのがイエスなのである。ここで教えられるのは、イエスの謙遜である。しかしこれは、人間の常識では考えられないことであるため、聖霊の働きなしには信じることはできない。神の愛は、まさに常識破りなのだ。
 
  東方の博士たちは、イエスに出会うために、メソポタミアを出て、遠く離れた地までやってきた。羊飼いたちも、自分たちがいた場所を出て、イエスを探しに行った。しかし王室の中に留まっていたヘロデ王や律法学者たちは、イエスに出会うことができなかった。同じように私たちも、イエスに出会うためには、自分の価値観や常識、プライドといったものから出て、謙遜になってみることが必要だろう。そして、信じる者には神の子とされる特権が与えられ、いつもイエスが共にいて、祝福してくださるというのが、驚くべき神の約束なのである。