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『にもかかわらずの恵み』使徒9:1~19、詩篇23:6 [礼拝メッセージ]

12月1日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

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 詩篇23:6「私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」の『追う』は、『迫害する』と同じ言葉で、そのくらい強い意味がある。パウロは、この神の恵みに追いかけられて変えられた人物だ。彼はユダヤ教の最高の教育を受けたエリートであり、当時の呪いのシンボルである十字架にかけられたイエスを、神と信じるクリスチャンを、神の名を汚す者として激しく迫害した。しかし、ダマスコで復活のイエスに出会い、180度変えられて、キリストの使徒として異邦人伝道に生涯を捧げたのである。
  イエスは彼を「わたしの選びの器(使徒9:15)」と呼んでいるが、このように神によって選ばれている人は、時が満ちると必ずイエスを信じるようになる。そして、迫害者であったパウロが救われたように、私たちは皆、行いではなく、ただ恵みによって救われる。また救われた人には、必ずその人にあった使命がある。パウロはユダヤ人でありながらローマの市民権を持ち、当時の共通語であったギリシャ語を話せ、旧約聖書に精通するエリートだった。これらのことが全て、異邦人伝道という使命を果たすために必要な賜物となった。私たちも一人一人、使命にあった賜物が与えられているのだ。
  今、ヨシュア記をディボーションしているが、6章のエリコの戦いと8章のアイの戦いでは、両方とも勝利を得るものの、戦い方が全く違うことに気付くだろう。エリコでのヨシュアの群は、町のまわりを回り続けただけであり、自分達の力は使っていない。それに対してアイでは、20万の全群で、力と知恵を尽くしている。実はこれは、新生(イエスを信じて救われる)と聖化(救われてからの歩み)を表している。救いは神の一方的な恵みにより、私たちの努力や行いは必要ないが、救われてからは、祈りと聖霊の力をいただきながら、良い行い(イエスの願いを実現する)に励むことが大切なのだ。
  聖書を見ると、せっかくイエスに会えそうになりながら、権力や知恵にとらわれ、見出だせなかった人々がいると同時に、当時の社会の最下層であった羊飼いたちや、異邦人である東方の博士たちのように、素直な心でイエスを見出だした人々がいることが分かる。まさに救いは「にもかかわらずの恵み」である。クリスマスのこの時期、一人でも多くの人がイエスに出会えるよう祈ろう。