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感謝を伝える Ⅰテサロニケ5:16~18

5月12日母の日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 今日は母の日にちなんで、感謝と愛をどのように伝えれば良いか学んでみたい。
 Iコリント9章に「ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシャ人にはギリシャ人のように」というみことばがある。これはパウロという使徒の語った言葉で、イエス様の素晴らしさをわかりやすく伝えるための知恵として、その人の個性に合わせる必要があるということ。母の日であれば、お母さんのタイプに合わせて、感謝を伝える方法を具体的に考えてみよう。
 母の日のアンケートで、お母さんたちが欲しいと答えたもののベスト5を紹介すると、「①感謝の言葉や手紙、子どもからの似顔絵等②家族と共に過ごす時間③個人的な時間④家事の手伝い⑤具体的なプレゼント」だったという。ここからわかることは、お母さんたちには個性があり、欲しいものもみんな同じではないということだ。
 どうすれば愛が伝わるかは、人によって違いがあり、「愛を伝える5つのポイント」があるという。それぞれについて、アンケート結果と照らし合わせて考えてみたい。
・肯定的な言葉…アンケート①に該当する。
・クオリティ・タイム…「充実した時間」という意味で、外交的な人にとっては誰かと一緒に過ごす時間、内向的な人にとっては一人でゆっくり過ごす時間になることが多い。アンケート②③に該当する。
・サービス行為…アンケート④のように、料理や掃除等の家事を手伝ったり、苦手なことを助けてあげるなど。
・スキンシップ
・贈り物…アンケート⑤に該当する。その人の欲しい物、喜ぶ物をリサーチしておくと良い。
 このように、相手に合わせて愛を伝えるということは、豊かな人間関係の原則になる。母の日にあたり、ぜひお母さんのタイプに合わせて実践してみてほしい。



『結婚と離婚』 マルコ10:1~12 [礼拝メッセージ]

5月5日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 大谷翔平選手が結婚したが,大変な時期にパートナーがいて心強かっただろう。ドジャーズでの活躍も楽しみにしている。今日は,聖書から結婚と離婚についての教えを確認したい。

 パリサイ人がイエス様を陥れようと考え,離婚について質問した。当時,モーセの教え(離縁状の許可)を人々が自分に都合がよいように解釈していた。イエス様は,旧約聖書から「まことの神様が男と女を作り,二人は一体になる。神が結び合わせたものを離してはいけない。」と教えられた。

 豊田信行先生の著書『夫婦となる旅路』に「よりよい夫婦関係のためにお互いに違いを知ることが大切」と書かれている。そのうちの3つを紹介する。
・心の充電方法の違いを知り,相手の充電方法を尊重し,サポートする。
・パニックボタン(パニックになるきっかけや言動)を理解し,相手がパニックにならない言葉かけをする。
・愛を感じる5つのポイント(肯定的な言葉,スキンシップ,サービス行為,クオリティタイム,贈り物)のうち,相手が求めているものを知り,実践する。
これを知ることは,夫婦関係だけでなく,よりよい人間関係のために用いられる。

 やむをえない事情で離婚をし,傷ついた人がいる。イエス様は結婚生活がうまくいかず傷ついたサマリヤの女を悔い改めと救いに導いた。喜びに満ちた彼女は,多くの人にイエス様のことを伝えた。ここに模範がある。離婚せざるをえなかった人たちを愛のうちに迎え入れ,本当の喜びの源であるイエス様を伝えることが,教会のすべきことだ。

 次に,クリスチャンホームについて考えたい。共に信仰の火を燃やし,人生観・世界観の基盤が同じであれば,問題が起こってもイエス様を見上げ,天からの解決をいただくことができる。神様と教会と人々に仕える家庭を目指すと,二人の絆が強まる。未婚者や,配偶者がクリスチャンでない場合,クリスチャンホームを築くことを目指してほしい。


『第二戒 見えない神を信じる幸い』出エジプト20:4~6、30:1~6 [礼拝メッセージ]

4月28日礼拝メッセージ(川端伝道師先生)より

「偶像を造り、それらを拝んではならない」。これが第二戒で命じられている事柄だ。ではこの「偶像礼拝」の罪の本質とは何なのだろうか。
 創世記1章27節に「神は、人をご自身のかたちとして人を創造された。神のかたちとして男と女に彼らを創造された」とある。このことが示す第一は、「人間は、他の被造物とは区別される存在」だということ。聖書のみことばにもあるように、私たちは全ての被造物を神に替わって管理するという特別な使命が与えられている。
そして第二は、「人間だけが、神様との交わりに生きることができる存在」だということ。私たち人間には神の言葉を聞き、神様と心を合わせ、その言葉に応答する能力が与えられている。人間だけに与えられた特権だ。
 そのように特別な存在として神様に造られた私たち人間が、木や石でできた人格のないものに向かって頭を垂れる、神でないものを拝むようになった。偶像礼拝とは偶像に仕えることで偶像に似たものとなる行為であり、人間自らを著しく引き下げ、創造主なる神をこの上なく悲しませる罪なのだ。
 モーセがシナイ山で十戒を授かっているその時、兄アロンとその同胞たちは山のふもとで40日もの間待っていた。彼らは不安を募らせ、モーセの代理アロンに訴えた。「我々に先立っていく神々を、我々のために造ってほしい」。そしてそれぞれエジプトから持ち帰った金の装飾品をかき集めて子牛のかたちの鋳型に流し、出来上がった像を皆で拝んだというのが「金の子牛事件」である。
 なぜイスラエルの民は偶像礼拝に手を染めてしまったのか。彼らは決してまことの神と全く別の神を生み出した訳ではない。目に見えない神を目に見えて触れられる、自分たちが信じやすい形に置き換えたということなのだ。彼らは目に見えない神を信じ従うという信仰に留まることができなかった。偶像礼拝の本質は、人が神様というお方を、自分好みのイメージに変えることであり、私たち本位の願い、望み通りの鋳型に流し込んで「神様像」を造ること。それを「これが私たちの神様だ」と礼拝すること。
 この第二戒は決して、私たちと縁遠い戒めではない。
 なぜイエス様が当時のユダヤ人たちから受け入れられなかったのだろうか。それはイエス様が、彼らの想定した「救い主」の枠の中に収まらなかった、型破りなお方だったからだ。私たちは自分の考えが及びもしないような、理解できないことを平気で許される神に失望し躓いてしまう。
 偉大な神様は私たちのちっぽけな頭の中、願いの中に収まるようなお方ではない。
 私たちはどうしても「安心」を求めてしまう。安心とは見通しが立っている状態のことだ。現実的で具体的な安心を与えてくれるものにすがってしまう、それがその人の「偶像」となる。
 彼らとは真逆の態度を示したのは少年サムエルだ。彼はある夜、自分の名前を呼ぶ神の声を聞いた。主人エリが呼んだのかと勘違いしてエリに尋ねるがそうではなかった。エリはサムエルに助言して、サムエルは従った。「主よ、お話しください。しもべは聞いております」そして神様は大いなるご自身の計画を語られた。
 サムエルのように、みことばの前に静まる人の心には偶像が生まれる余地がない。その人自身が神様にあって造り変えられてゆく。
 彼のように、イエス様の母マリヤのように、黙って主の御声に耳を傾ける姿に、私たちは倣うものでありたいと思う。

『愛をもって真理を語る』マルコ9:38~50 [礼拝メッセージ]

4月21日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

Ⅰ.わたしたちに反対しない人は味方
ヨハネがイエス様に言いました。『あなた様の名によって悪霊を追い出している人を見たのでやめさせようとしました。私たちについてこなかったからです。』
それに対し、仲間でなくても同じ信仰に立つのなら味方だよ、協力しなさい、というのがイエス様の答えでした。注意すべきことは、仲間意識が強すぎると排他的な感情が生まれることがあります。自己中心や固執した考えがないか意識しましょう。またキリスト者である私たちに親切にしてくれる人たちを天は必ず報いて下さるとも言われました。父なる神さまの温かい親心を感じます。

Ⅱ.小さい者たちへの配慮
 イエス様は「小さいもの(霊的に弱い人)に躓きを与えるな」と言われました。つまり、小さいもの幼いものを大切にし、配慮しなさい、ということです。先週から月一回の子ども食堂が土曜日午後から日曜日朝の開催に変わりました。日曜朝、両親が遅くまで寝ている家庭が多いだろう、お腹を空かせて食事を待っている子どもや家庭の事情で三食食べられない子どももいるかもしれない、という理由からです。8時30分からでしたが24名の子どもが来てくれて、その後のJキッズの集いも楽しんでくれたとのことです。ハレルヤ!
また関西ブロックの中高生が参加するチャレンジャーキャンプ、30周年を迎えます。力ある教会が小さな教会に仕えること、中高生たちに仕えることは、小さきもの=イエス様に仕えるということを大事にしながら、魂を生み育てていきたいと思っています。

Ⅲ.愛をもって真理を語る
すべてのものは火(試練)をもって塩気をつけられる、とイエス様は言われました。ダビデの信仰が飛躍的に伸びたのは、サウル王に命を狙われていた時でした。先週のSさんの証によれば、自分がクリスチャンという理由で失恋した時、信仰が本物になりました。
またイエス様は塩気を保ちなさい、とも言われました。防腐剤の役割をもつ塩は対象物と交わることで役割を発揮します。つまり相手を受け入れる、受容が必要です。ただし、なんでもかんでも受容するのではなく、相手の心情を理解した上で、自分の考えを明確に示すことが塩気となるのです。難しいことかもしれませんが、相手と向き合うとき、愛をもって塩気を示すことができるよう、主に祈って、頼って、知恵を頂きたいと思います。


『依存と自立』 マルコ9:30~37 [礼拝メッセージ]

4月14日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

Ⅰ.理解できなかった弟子たち(苦難のしもべと栄光の王)
『それは、イエスが弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。しかし、弟子たちにはこのことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。』(マルコ9:31.32)
 イエス様は、十字架の道を歩まれることを弟子たちに教えられました。しかし、弟子たちは「栄光の王」はローマ帝国から解放して下さる王として誤解しており、「苦難のしもべ」として殺されるということは信じたくありませんでした。「苦難のしもべ」は初臨に於いて、「栄光の王」は再臨に於いて実現することをまだ理解できませんでした。
Ⅱ.誰が一番偉いか(義認、聖化、栄化)
『一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。』(マルコ9:33.34)
 イエス様は、霊的な理解が不足していた弟子たちに教える必要を感じました。「救い」にはイエス様を信じた時に義と認められる「義認」、イエス様の姿に成長する「聖化」、携挙の時に栄光の姿に変えられる「栄化」の3つの段階があります。霊的に幼子だった弟子たちに、「神の国におけるリーダーは、小さな子供を受け入れ、仕える姿こそ、その背後におられる神様にお仕えする姿勢である」と教えられました。
Ⅲ.依存と自立
 「誰が一番偉いか論じ合っていた」弟子たちは、権力依存症にかかっていたという事が出来ます。イエス様という力に依り頼んで自分の欲求を満たそうとしていたのです。この思いは十字架の死によって完全に砕かれ、復活の主にお会いし、聖霊の助けを頂いた時に霊的理解力が与えられ、「義認」から「聖化」への道へと進んで行くことになります。つまり、依存から脱却し、自立への歩みが始まったのです。私たちも良きサマリヤ人をモデルに、自分の自立を失うことなく、隣人の自立を手助けできる者とさせて頂きましょう。

『わたしの名のゆえに受け入れるなら』マルコ9:30~37  [礼拝メッセージ]

4月7日(入学祝福式)礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
 イエス様と弟子達はカペナウムのペテロの家まで向かっていた。その道中、イエス様はご自身が死んで三日目に復活される事を弟子達に話されたが、弟子達はその意味を正確に理解できず、イエス様が亡くなって以後の事を考え、誰が一番出世し地位が高くなるのかを熱心に論じ合っていた。そんな弟子達にイエス様は、地位や名誉を求めるのではなく人に仕える者となる事を教えられ、人に仕える一例として、当時、ごまめ扱い(半人前、力や能力の無い者)されていた子どもを、かけがえない存在として認める事を弟子達に求められた。
 神様の許しと愛によってこの世に誕生した子どもや幼子を受け入れる事は、イエス様を受け入れる事、そして、それは神様を受け入れる事だと語られた。

(ある動画の鑑賞)あらすじは、親が病気で薬を万引きした子どもが、店主に叱責を受けるが、それを見ていた飲食店店主が事情を理解し薬代を払い、自身の店の野菜スープを子供に与えた。30年後、飲食店店主は病に倒れ莫大な治療費が必要となり、家族は店も売りに出し困り果てる。そんな時、治療代は30年前に支払い済みとして0円の請求書が届く。あの万引きをした子どもは医師となり店主を救っていた。

 この動画では、神様の愛ゆえに存在する子どもには将来があり、子どもに善行できる人には報いが与えられる事を伝えている。たとえ、この世で報いがなかったとしても、天の御国で報われるのだ。イエス様は子どもに仕える事を心から祝福して下さる。当教会でも幼子や子どもに仕えるプログラム(こひつじ組、プリスクール、幼児園、Jキッズ、中高科、子ども食堂)を行っている。子ども達に仕える事はイエス様に仕える事との認識を共有して今年度もこの働きを進めていきたい。


『見たことも、聞いたこともない②』Ⅰコリント 2:1~10  [礼拝メッセージ]

3月31日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 イエス様の十字架の死と復活こそ、目がみたことのないもの、耳が聞いたこともないもの、神の知恵、神の奥義である。
 救い主が十字架で死に、復活するなど常識では考えられないが、愚かで無力な十字架のことばには神の力が宿っている。もし復活が嘘なら、恐れて隠れていた弟子たちの殉教、パウロの回心は説明できない。復活が事実と信じられるのはご聖霊の働きである。サタンはイエス様を十字架につけて殺し、勝利したと思ったが、神はイエス様を復活させ、サタンを敗北させた。それ以来サタンは人々が救われないように躍起になって働く。 十字架は無意味で復活などありえないと思うよう働きかける。 
 私達も復活できると約束されている。信仰による救いを受け取ったかどうかで死後に苦しみの世界に行くか、慰めの世界=パラダイス=第三の天、天国に行くか決まる。死は肉体と霊魂の分離である。救われた人はパラダイスで復活の時を待つ。復活の体は部屋に一瞬で入ることでき、見てさわること、食べることもできる。復活の体はイエス様が再臨される時与えられる。まず、キリストにある死者がよみがえり、それから、まだ生きているクリスチャンが瞬時に引き上げられ空中で主と会う。その時がいつなのかわからない。だから目を覚ましていなさい。
 元淀川キリスト教病院院長、柏木哲夫氏は①自分に起こる事すべては益と変えられる ②死後の行き先を知り、そこに行けると確信がある この二つがあるならかなり幸せであると言う。人生には三つの坂、上り坂・下り坂・「まさか」という坂がある。「まさか」はほとんど不都合なことで不幸に思えるが、将来益になると思える。死は新しい世界への出発と確信するなら幸せである。
 では、すべてが益になるのなら、私達は何もしなくていいのか?いや、やるべき事をし、どうすることもできない事は主に委ねる。これがクリスチャンの生き方である。例えば、子供とピクニックに行く約束の日、あいにくの雨。 雨天用のプログラム考え、お祈りして寝る。晴れれば喜び、雨なら、「残念だね」と思いっきり子供の心に共感する。そして、世の中にはどうすることもできない事があることを子供と共有する。雨が降るから虹が出ることも分かち合う。雨は人生そのもので、現実に厳しいことはある。困難があっても大丈夫と思えるのが成熟したクリスチャンである。

『第一戒:神様だけを信じる幸い』出エジプト 20:1~3、ヨハネ 4:1~28 [礼拝メッセージ]

3月24日礼拝メッセージ(川端伝道師先生)より

 十戒は二枚の石の板に書き記されており、一戒から四戒までが、神様を愛することを教える戒めであり、五戒から十戒までが、人を愛することを教える戒めであるというふうに分かれている。マルコ12章でイエス様が一人の律法学者から、律法の中で最も大切な戒めはどれかと質問を受けた時、イエス様は、「第一の戒めは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。」そして「あなたの隣人を、自分自身のように愛しなさい。」と答えられた。
 神を愛することを教える戒めの一つ目は、「まことの神様以外の神があってはならない。」である。キリスト教は排他的だと批判を受けることがあるが、私たちの信仰は聖書の神様と愛の関係で結ばれている。一方多宗教は一方通行で、そこに人格的交わりはない。神様がエジプトから民を救い出された動機は、ただご自分の民への一方的な愛に突き動かされたからであった。
 また聖書は私たちと神様との関係を、結婚関係に例えている。第一戒の命令には、神様の誓約を持って契約を結んだ民と、健全な愛の関係を築いていくために与えられた大前提に第一戒の必然性をみる。
 今日のヨハネの箇所のイエス様のサマリアの女へのお言葉から、イエス様は彼女の本当の渇きは心の内側であることを見抜き、神様以外のもので心を満たそうとする彼女に、尽きることのないいのちの水、すなわち神の愛を教えて下さった。彼女は第一戒が命じる通りに、神様だけを拠り所として生きる者へと変えられたのである。
 私たちもそれぞれに心の渇きを覚える者であるが、「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがない。」このイエス様の言葉に信頼し、神様の愛に留まることで、私たちの心に泉がわく。これが、第一戒が私たちに命じている事柄である。目まぐるしい日常の中で、ふと心が疲れてしまうことがあるが、そんな私たちには、イエス様の愛に触れる場所、御言葉に憩い、養われる場所が必要である。そのためにも公の礼拝、各牧場での交わりが用いられるように。互いに声を掛け合い、祈り合い、励まし合いながら、この第一の戒めに留まり続ける私たちとならせて頂こう。


『見たことも、聞いたこともない(主に従う時)』Ⅰコリント2:9、使徒20:27~32 [礼拝メッセージ]

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3月17日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 みことばを信じ従って歩むとき不動産業を営む執事さんが語った証しのように人間の思い を遥かに超えた驚くばかりの恵みを主は与えてくださる。今年与えられたみことばに従うときどのような祝福が与えられるのか考えてゆきたい。
 私たちは何故みことばを学ぶのだろう。みことばによって聖書的な物の見方、考え方、世界観を身につける事は必要不可欠だ。聖書によって真実を見抜く目が養われ異端から自分と教会を守る力となるからだ。主が教えて下さった主の祈りがこの地上に現され天の御国に繋がってゆく。イエスさまが流した血潮は教会のためでもある。救われた者の集まりである主の体なる教会を建て上げるために私たちはどのように携わってゆくのみことばに従い歩んでゆこう。健全な教会形成と成長のために新年度から行う聖書の学びを通して主に愛される教会をみんなで建て上げこの地に御国を実現させてゆきたい。
 また教会の主要な役目としての宣教と弟子化、副次的な役割として社会的責任がある。世界的教会指導者のジョン・ストットは宣教を伝道と社会的責任の2つであると定義しこの2つが重要であると言っている。イエスさまも福音宣教と同時に弱さに苦しむ人々を癒すという愛の技を行われた。主要な役割を大切にしながら社会的責任として幼児教育やこども食堂を開き、孤食の子どもたちのニーズに対応してゆこうとしている。また高齢者を対象としたキラキラ会やゴールドプランの計画に主がどのように応えてくださるか検討し祈っている。そして次世代を育てることは教会に与えられた大切な使命だ。神さまから委ねられた大切な子どもたちを育んでいくために幼児園やプリスクールなど多岐にわたる次世代を育て地域に仕える教会として力を入れている。次世代を育てる働きをみんなで取り組んでゆくために礼拝の中で幼児園やプリスクールなどの証しを取り入れ共有してゆきたい。次世代を担う若者たちの意思を尊重しながらより良い繋がりができるように期待している。
 午後からの総会でビジョンを確認し、主がどのように応えてくださるか期待して待とう。
『目が見たことのないもの、耳が聞いたことがないもの、人の心に思い浮かんだことのないものを、神は,神を愛する者たちに備えてくださった。』   Ⅰコリント2:9
 
 

『私たちが追い出せなかったのは、なぜですか』 [礼拝メッセージ]

3月3日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 この息子の口がきけない、引きつけを起こすといった状態は悪霊によるものであったが、「幼い時から」と書かれていることから、親に原因があったと考えられる。例えば、オカルトや占いなどと深く関わると、悪霊の影響を受けやすくなってしまう。悪霊に侵入口を与えないように、オカルトや占いには関わらないことが重要である。
 悪霊を追い出してもらおうと、イエスに「おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」と願う父親に対し、イエスは「できるなら、と言うのですか。」と問いかけるが、これは父親から信仰を引き出そうとした言葉である。父親はすぐに「信じます。不信仰な私をお助けください。」と答え、息子は癒される。ここからわかることは、信仰とは100%信じきることだけを意味するのではなく、たとえ不信仰な部分があったとしても、神は恵みを与えてくださるお方だということだ。Ⅰコリント12:3にあるように、私たちは自分の力で信じたのではなく、聖霊によって信じることができるようにしていただいたのである。同じように、祈りが応えられるのも、神からの賜物(プレゼント)なのだ。
 では、弟子たちが祈ったにも関わらず、この息子から悪霊が追い出されなかったのは何故だろう?理由として、弟子たちに欠けていたものが2つ考えられる。ひとつめは「神への信頼」の欠如であり、弟子たちは過去に悪霊を追い出した体験から、神に頼ることを忘れ、人間の力で追い出そうとしていたのではないかということ。これと対照的なのが、息子の父親の態度である。「不信仰な私をお助けください」と、すべてを主に委ねて頼った。聖霊の力なしに霊的な働きをすることはできず、主に頼ることなしに行っても、虚しい結果となる。礼拝や牧場も含め、私たちも自分の力に頼ろうとしていることはないか、振り返ってみたい。
 ふたつめは「この父親と息子に対する愛」の欠如である。この時の弟子たちの関心事は「自分たちの中で誰が一番偉いか」だったため、2人への愛よりも、自分たちの力を表すことが目的になっていたのではないだろうか。
 神にきかれやすい祈りとは、「神、人、自分に対する3つの愛に基づいた祈り」である。例えば、結婚のためであれば、自分の求める相手の条件だけを祈るのではなく、家庭を通して神の栄光を現せるように。経済的なことであれば、自分の必要のためだけでなく、神と人にもっと仕えることができるように。このような、3つの愛に基づいて何かを求める祈りであれば、神は喜んで応えてくださるだろう。自分の祈りの姿勢を振り返ってみたい。

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