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『わたしがあなた方を愛したように』ヨハネ 13:34 [礼拝メッセージ]

1月20 日(野口牧師先生)より
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 真の神様への愛はその人の持つ赦しの実感に比例し罪の自覚から来る。自分の罪の自覚が増すほど神様の恵みもはっきり見えて、その感激が奉仕の心を高める。パウロは正にこの証人である。熱心なパリサイ人であったパウロはクリスチャンを迫害しステパノをも殺したが、ダマスコで復活のイエス様とお出会いし、これまでの人生が逆転して異邦人伝道の使徒となったのである。パウロは祈りの中でイエス様の十字架と復活は自分の為であったこと、またこんなひどい迫害者であった者が赦され異邦人への使徒としての使命が与えられたことを思うと、全力でこの使命に生きなければならないと思ったことであろう。
 パウロはイエス様に習う者としていつも一番指向であった。イエス様の愛に感じて誰よりも一番多く働きたかった。私たちも置かれた所で一番弟子を目指していきたい。私たちは神様に創られたオンリー1、自分のできるベストを尽くしてその結果一番になれたら良い。
 神様に用いられる人の条件はただ一つ、イエス様を愛するということ。イエス様に従うと言ったペテロも結局はイエス様を裏切ってしまった。しかし復活の主として現れたイエス様はペテロを責めるのではなく「あなたはわたしを愛しますか」と確認され、その上用いられたのである。イエス様への愛が確かであるならば例え失敗したとしてもどこまでも用いてくださる。
 私たちクリスチャンの交わりは三位一体の真の神様を中心とした、主にある家族の交わりである。神様を抜きにした人と人との交わりは本当の意味で分かりあえなくなるが、信仰者の交わりは真ん中に真ん中に、イエス様にイエス様に、近づけば近づくほどお互いが近づいていく神中心の交わりであり、主にあって互いに愛し合い与えあう愛の交わりである。イエス様が祈りから力を得られていた様に私たちも互いに愛し合うことを祈りを通してまた、ご聖霊の力を頂きチャレンジしていく。主にあって互いに愛し合い行動を起こしていく時、そこに大きな祝福が生まれるばかりでなく自分自身をも幸せにする。
 イエス様は私たちに不正の富で自分の為に友を作りなさいと言われる。不正の富とは私たちが自分の物としている全てのものであり、実は神様からの一時的な預かりものであるにも関わらず自分の物のように錯覚しているところに不正があるということである。しかし主はそれを三つの愛のために用いよと言われる。主の家族を愛しまだイエス様を知らない人の為にその不正の富を多いに活用せよと命じておられるのである。