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『ステパノの逮捕と弁明』使徒6:8~7:53 [礼拝メッセージ]

4月15日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 獅子奮迅の働きをしたステパノ、何故そのような働きが出来たのだろう。 それは恵みに溢れていたからであり、現代の私達にも相通じる部分がある。恵みとは相応しくない者に与えられるまことの神さまの御愛、「にもかかわらずの愛」だ。 取税人ザアカイは莫大な富を持っていたが心は満たされていなかった。劣等感と心の傷に苦しんでいる彼が、あるがままの姿で受けいれるイエスさまの出会いその無条件の愛に触れたとき、恵みが力を生み悔い改めにつながり生き方が変わった。私達も同じだ、イエスさまの恵みが前向きに生きる原動力になっている。ステパノはその御愛を誰よりも知っていて恵みの応答をしたのだ。
 このステパノに対しユダヤ人達は神殿と律法に逆らうことばを語るのを止めなかったという理由で彼を訴えたが、その原因は自分達の罪を指摘されたことに対する怒りだった。ユダヤ人が誇りとしている二つのものに神殿と律法がある。しかしその神殿はユダヤ人によって偶像化され、まことの神さまの怒りを受けた。まことの神殿とはイエスさまを指し示すものであり、神殿が壊されても3日で建て直すと言われた意味は、ご自分が十字架で死なれても3日目に蘇りイエスさまのからだなるまことの神殿を建て直すということだ。
 もう一つの律法としての十戒。神の民として与えられたルールである十戒を受けながら、自分勝手な解釈をしてイエスさまを殺すための口実を作り十字架に付け、まことの神さまに背を向けた。ステパノは自分達を陥れようとした人達を糾弾し悔い改めを迫ったが、偽りの証人を立ててまで自分達を正当化する人間の悪の本質がここにある。
 だからこそ今、私達は聖書をどのように解釈するのか用いるのかが大切なポイントになる。真面目であればあるほど律法主義に縛られ、必要以上に自分を裁きサタンを喜ばせる結
果を生む危険性があるからだ。罪の呵責というコンプレックスから脱してゆくために聖書の教理をしっかりと知ろう。
 コロサイ1:22に記されているように、まことの神さまはイエスさまを通して私達を見てくださる。この恵みによって私達は力を受けステパノやザアカイのように主に用いられる者となる。私達の理念である「主の恵みに生きる教会」としてその恵みに立ち歩んでゆこう。