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『イエス様の大きな関心は、教会にあり』Ⅰコリント3:9~17 [礼拝メッセージ]

11月22日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

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 9節でパウロは、コリントのクリスチャンたちに「あなたがたは神の建物です」と言っている。建物にとって大切なことは、土台にしっかりと杭が打ち込まれていることであり、ここが曖昧だと建物全体が傾いてしまう。そして11節で「その土台とはイエス・キリストです」とある。コリントの人たちが分派争いをしているようなパウロでもアポロでもなく、教会の土台はイエスだけであるということだ。
 では、土台なるイエスにしっかりと杭を打ち込むとは、どういうことだろうか?それは、みことばを聞き、知識を増やすだけではなく、自分の生活に適用し、実践することである。そしてもうひとつは、キリストのからだなる教会に、しっかり繋がることである。
次に建物に大切なのは、材料である。12、13節に「金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります」とあるように、焼けて滅びるもので建てるか、残るもので建てるかで、天国での報いが違ってくるというのである。そしてそのポイントは、地上の教会建設にどう関わったかということにある。なぜなら教会はキリストのからだであり、クリスチャン一人一人はその各器官だからだ。人間的な動機で教会建設にたずさわることは、滅びる材料で建てることになる。
では、17節の「神の神殿をこわす」とは、どういうことだろう?それは大きくは「分派に分かれる」「誤った教え」の2つが考えられる。特に、誤った教えの代表として「行いによって救われる」というものがある。エペソ2:8~10に「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたの
です。…行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」とあるように、行いは救いの条件ではなく、目的なのである。
イエスは私たちのために、十字架にかかってくださった。この愛の犠牲を知る時、その愛に応えたくなるだろう。犠牲はパワーなのだ。そしてイエスの犠牲は、救われた人の群れである教会のためにある。
  イエスが私たちの魂の誕生と成長のために犠牲を払ってくださったように、私たちにできることを考えてみよう。主にあって、自分が仕える、愛する、犠牲を払う対象となる人は誰だろうか?イエスに倣い、一人一人が愛の犠牲を実践していってほしい。