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『家の教会は、神の家族』ピレモン1~21 [礼拝メッセージ]

10月13日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

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ピレモンの家の教会は、パウロによって救われたピレモンとアピヤ夫妻、そして彼らの息子アルキポによって成り立っていた。彼らはパウロに信頼され、そして5節を見ると、イエスに対する信仰と、人に対する愛を両立していた人物であることが分かる。
 このピレモンの奴隷であったオネシモは、ピレモンから金品を盗み、逃亡した末、パウロによってクリスチャンとなった。そしてパウロが「あなたに代わって私のために仕えてもらいたい」と思うほどの人物に変えられたのだった。パウロはピレモンに、オネシモが逃亡したことを「彼がしばらくの間あなたから離されたのは」と表現している。これはイエスの目から見て、オネシモの救いのために、神があえてそのような方法をとったのだということ。私たちはみんな、それぞれ不思議な方法で神のもとに導かれてくる。クリスチャンホームの子供も、大半がクリスチャンではない日本の、非常に確率の少ない中で生まれたのである。
 パウロがオネシモを「獄中で生んだわが子」と呼んでいるのを見ると、牢屋で伝道したのかと不思議に思うかもしれない。しかしこの時代は、まだ裁判を受けていない囚人は、自分で費用を払い、見張りの番兵をつけるなら、一軒家に住むことが許されており、人を招くことも自由であった。つまりパウロの「獄中」とは、ある意味で家の教会のようなものだったと言えるのではないだろうか。
イエスを信じたオネシモは、神の前に罪を許された。しかしピレモンに許してもらわなければ、社会的には犯罪者のままである。しかしオネシモには、盗んだ金品を返す財力はなかったと思われる。そこでパウロは「請求は私にしてください」と伝えている。このパウロの原動力は、以前クリスチャンを迫害していた自分が、イエスの十字架の犠牲の故に許されたという、恵みの大きさだったのであろう。ピレモンからしても、裏切者のオネシモを許すことは難しかったに違いない。しかし、自分もイエスによって許された者であること、またパウロの犠牲を思う時、受け入れざるを得なかったであろう。
確かに犠牲を払うのはしんどいことだ。だが、一粒の麦が地に落ちて死ぬことで実を結ぶように、犠牲なくして実りはない。家の教会でも、新しい魂の救いのため、牧者やメンバーはお金、時間、労力といった様々な犠牲を捧げている。しかし、産みの苦しみがあるからこそ、新しい魂の誕生には大きな喜びがあるのだ。