SSブログ

「悪霊につかれた人のいやし」 マタイ8:28~34 [礼拝メッセージ]

P1000958.jpg

12月16日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 ゲラサの地に着いたイエスの前に、墓場に住みついて、鎖も引きちぎってしまい、夜昼となく叫び続け、石で自分のからだを傷つけている人が現れたとある。私たちは彼を、重い精神病だと思うだろう。しかしマルコ5章6~7節の「彼はイエスを拝し、大声で、叫んで言った。『いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。』」を見ると、この人は精神を病んでいるのではないことが分かる。なぜなら、弟子たちでさえ、まだイエスのことを「素晴らしい預言者」と思っていたこの時点で、すでに神の子としての正体を見抜いていたからだ。彼が自分の名をレギオン(軍団)と言っているように、悪霊の軍団が宿っていたのである。
  悪霊はイエスに、豚に乗り移らせてくれるよう願い、イエスがそれを許すと、2千匹ほどの豚の群れが、湖へなだれ落ちて死んでしまう。と同時に、悪霊につかれていた人は、着物を着て、正気に返ってすわっていた。「湖で嵐を静め、悪霊をも追い出すこの方こそ、神の御子キリストである」というのが、マタイが8章で伝えたいことなのである。
  ではなぜこの人は、イエスが来た時、遠くから駆け寄って来たのだろうか?本当にいやなら逃げれば良いのに、「私を苦しめないでください。」と言いながら駆け寄って来たのは、心の底に、何とか助けてほしいという思いがあったからではないだろうか。私たちは皆、自分をコントロールすることができない罪人である。しかし、人はどんなに病んでいたとしても、イエスに出会うなら、正気に戻ることができるのだ。
  また、ゲラサの人々は、豚が死んだことによる経済的な損害に目を奪われ、イエスを追い出してしまう。これは非常に勿体ないことだが、実は私たちも同じようなことをしていないだろうか?イエスの素晴らしさを知っても、生活の変化を心配して、信じる決心ができなかったり、あるいは信じていても、イエス以上に心を占めているものはないだろうか?クリスマスを迎えるにあたり、改めて確認してみたい。