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メシアのテスト  マタイ4:1~11 [礼拝メッセージ]

12月18日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

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  マタイ4:1を見ると、悪魔と御霊が協力してイエスを試そうとしているような、不思議な感じを受けるかもしれない。しかし、それぞれの目的は全く違う。悪魔はイエスを誘惑し、父なる神との絆を断ち切らせようとしたが、御霊はイエスにメシア(救い主)としての資格を与えるため、あえて試みにあうことを許されたのだった。私たちが試練にあう時も、そこに神の御手を見ることができる人は幸いである。神の許しなしには、どんな試練にあうこともないからだ。

  この試練に備えるため、40日40夜断食し、空腹を覚えたイエスに、悪魔は「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」と、神の子であることを逆手にとって誘惑する。もちろんイエスはその力を持っていたが、使うことはしなかった。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)」とあるように、必要な物は神が与えてくださるのだから、神の時を待つというのが、イエスの信仰だったからだ。

次に悪魔は、神の子なら、神殿の頂から身を投げても御使いたちが守るはずだと誘惑する。これは詩篇91:11~12を引用しているのだが、本来の「神に信頼して歩むなら、神が守ってくださる」という意味を歪め、「あなたは特別だから、何をしても大丈夫なのでは?」と誘惑している。このように、聖書の一部分だけを取り出して、自分の都合の良いように解釈する罠には気を付けなければならない。

悪魔の最後の誘惑は、もし自分を拝むなら、この世の栄華を全部あげようというものだった。これこそが悪魔の真髄であり、本来神に向けられるべき礼拝を、被造物である自分に向けようとしている。これに対しイエスは「引き下がれ、サタン。」と一喝し、悪魔はイエスを離れて行った。イエスはこの世の支配者になることよりも、父なる神のみこころである十字架の道を選ばれたのだ。

  私たちの人生にも、試練は必ずある。しかしそれは、神との絆を深めるチャンスでもある。
試練を通して
 ①自分自身を知る
 ②訓練、成長につなげる
 ③他の人の祝福の器となる   
ことができる私たちでありたい。