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荒野開道 イザヤ43:19 [礼拝メッセージ]

1月23日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

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 イザヤ43章には、ユダヤ人達が神様からの様々な助けを受けてきたにも関わらず、不信仰を続け、その結果バビロンに滅ぼされ、虜として連れて行かれること、しかし神様の憐れみの故に、そこから解放されるということが預言されており、200年後、まさにその通りになる。

 ユダヤ人達が窮地に陥ったのは、神様に背を向け続けてきた結果であり、憐れみを受けるに値する民だったわけではない。しかし神様は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。(4節)」「もうあなたの罪を思い出さない。(25節)」と言われている。このように神様の愛は、行いに左右される人間の愛とは違い、「~にも関わらず」の愛である。私達が良い行いに励むことを願ってはおられるが、たとえそうできなかったとしても(行いの結果としての刈り取りは必要だが)、神様の愛は変わらない。
 
  この神様の愛に応える道の一つは、みことばへの信頼である。日々の生活の中で、思い煩いに捕らわれる時があるが、今までの神様の導きを思い返すならば、これからも必ず道を開いていってくださると信頼することができるだろう。そして「神様がいてくださるのだから大丈夫、何とかなる。」といった前向きな言葉を語っていくことが、自分を力づけ、実際にそうなっていく秘訣でもある。口から出す言葉を変えれば、人格も変わっていくのだ。
 
もう一つの道は、祈りによる信頼である。良い教会とは、問題のある人が集まり、そこで癒やされていく所だと言えるが、それを自分達で引き受けようとすると疲れてしまう。しかし、祈りによってイエス様の所に持っていくならば、どんなに問題が多くても、また大きくても、必ずイエス様が何とかしてくださる。私達の力で、人や自分の問題を解決できなくても構わない。祈りによってイエス様の手に渡し、委ねよう。そうするなら、イエス様ご自身が立ち上がり、道を開いて下さるのだ。