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失意の中の希望  出エジプト4:24~26、5:1~23 [礼拝メッセージ]

7月27日礼拝メッセージ(野口牧師)より


 パロのもとへ遣わされる途中、主はモーセを殺そうとされた。何故?主に用いられるリーダーは、まず自分の信仰姿勢を問われる。モーセがうやむやにしていた罪の部分を主はそのままにしておかれない。示された罪を悔い改め従う時、モーセも家族も主によって変えられてゆく。
 
 イスラエルの民を荒野に行かせ、「わたしはある」という方に礼拝を捧げさせてくれるよう請願したが、パロのかたくなさによって状況は前よりも悪くなり同胞にさえ憎まれるとはモーセにとって何と辛いことだろう。
 
 神様のご命令どおり従ったのに予想に反した結果になったらモーセのように私たちも失意の中に追い込まれるかも知れない。しかし主は、失意を希望に変えてくださる。自分と一緒におられる方がどのような方か、行おうとしておられる事の本当の意味は何かをモーセは体験を通して知るようになってゆく。
 
 神様は何故モーセの前に難敵パロを置かれたのだろう。相手が強ければ強いほどモーセは錬られ、鍛え上げられ試練の中で大きく成長しイスラエルの民を指導する者となってゆく。確かにそれは辛く、痛みを伴うがモーセには必要なことだった。私たちは安穏な生活を望んでしまうことがある。しかし逆境を通してでなければ得られない恵みがある。
 
 試練の中で主を見上げ、従って行くとき成長し主の働き人として用いられてゆく。私たちの目の前に置かれたパロは何だろう?でも大丈夫。イエス様が共にいてくださる時、パロという名の困難に何度でも挑戦する勇気が与えられ、それは決して失望に終わることが無い。

 失意を希望に変えてくださるイエス様の十字架の愛と力を伝えよう。