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『弱い者、小さき者を用いられる主』マタイ1:18~25 [礼拝メッセージ]

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12月22日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 イエス・キリストは、人間の罪の身代わりとなり、十字架にかかって救いの道を開くために、この世に来てくださった。それができる救い主の条件として、欠かせないことが2つある。まず、人間の罪の身代わりになるのだから、人間でなければならない。次に、救い主自身に罪があっては、身代わりになることはできない。つまり、人間でありながら、罪のない存在であることが必要になる。そのために神は、聖霊による受胎という驚くべき方法をとってくださり、選ばれたのがマリアだった。と同時に、ヨセフにはマリアを守るという使命が与えられる。この2人の信仰と決断によって、救い主イエスがこの世に生まれ、成長したのである。
 今日は小学生4人の洗礼式があった。「こんな小さな子どもが洗礼を受けても、何かできるのか?」と思う人がいるかもしれないが、小学4年生の男の子が書いた新聞の投稿記事の内容を紹介したい。病気で手術し、入院していたお母さんが帰ってきて、喜んだ男の子だったが、少しずつ、お母さんが以前とは違うことに気がついていく。手術後、お母さんは味と匂いがわからなくなり、料理の味付けができなくなっていたのだ。それを聞いた男の子は、お母さんと共同作業で料理を作ることを提案し、味付けを担当するため、朝も1時間早く起きるようになった。そしてこう言う。「お母さん、一人で頑張らなくていいよ。僕がいるよ。」と。また、私たちの教会では子ども食堂を開いているが、そこで調理をしてくれている調理師の男性が料理を始めたきっかけは、子どもの頃に両親が共働きで、彼が料理を担当していたことだという。このように、子どもたちの中にも様々な力と可能性が秘められているのだ。
 大人になって受洗する人の中でも、子どもの頃に教会学校に通い、福音に触れたことがある人の割合が非常に高い。そして、教会学校で育った子どもたちが、今度は次の世代の子どもたちを育てるための中心的な担い手となって、それぞれの賜物を大いに用いて活躍してくれている。
 人間は弱く、神を信じていても、時に疑いが生じることもある。それが当然であり、神はそんな私たちの弱さをご存知の上で、私たちを導き、祈りを通して神体験を与えてくださるお方だ。マルティン・ルターでさえ、疑いを持ったことがあるというが、その時彼を支えたのは「私は洗礼を受けている」という事実だった。子どもたちが洗礼の恵みにあずかるのは素晴らしいことであり、将来、彼らが社会や教会で活躍する人材となるために、共に祈り、支えていってほしい。


『今日ダビデの町で,救い主がお生まれになりました』(ルカ2:1~11) [礼拝メッセージ]

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12月15日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より

 ローマ皇帝アウグストが「先祖の町へ帰って住民登録せよ」という命令を出したので,ヨセフはマリヤを連れてベツレヘムに行き,そこでイエス様が生まれた。「救い主がベツレヘムで生まれる」という旧約聖書の預言の実現に,まことの神様は皇帝の命令さえも用いられる。また,イエス様が家畜小屋で生まれたので,社会的身分が低かった羊飼いが救い主を拝みに来ることができた。神様の配慮は人間の思いをはるかに超えている。
 イエス様は当時のユダヤ人がイメージしていた救い主の姿と異なったため,民衆はイエス様を十字架にかけた。しかし,イエス様の十字架が人間の罪を解決する方法だったのだ。
 イエス様の愛がわかると,人の生き方が変わる。ある女の子は,不幸な生い立ちの中で視力をほとんど失い,孤児院に引き取られた。暗く寂しい性格だったが,12歳の時に聖書を通して,イエス様がクリスマスに人となってくださり,私達の罪の身代わりとして十字架にかかって死なれたこと,3日目に復活されたことを知った。イエス様を信じた少女は明るくなり,高校を卒業する時に「自分の一生を,もっと不幸な人にささげる」と誓った。彼女は,三重苦のヘレン・ケラーを光の中に引き出したサリバン女史である。
 イエス様の愛を知ると,その愛に応えるようになる。教会では,愛の実践として月に1回の子ども食堂(ジョイファミリー食堂)に取り組んでいる。現在,日本では子ども食堂が急増しているが,多くは奉仕者不足に陥り,続かなくなるだろうと言われている。教会では,感謝なことに多くのボランティアが与えられている。
 クリスマスに,イエス様の愛をどう表していくか考え,チャレンジしてほしい。



『放蕩息子』 ルカ15:11~24 [礼拝メッセージ]

12月8日礼拝メッセージ(中村牧師先生)より

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 本日の箇所は「放蕩息子の例え話」についてであるが、私自身もこの弟息子のようにクリスチャンホームに育ち、恵みに溢れた環境にいながらそれを恵みとも思わず、洗礼を受けた後に神様と教会から離れた。自動車塗装の職人として一生懸命に励んだものの、頑張ればその分自分に返ってくる、自分の力で何でもできるんだ、と思いあがっていた。そして独立し自分の工場を持てたのだが、うまくいかなくなり、次第に追いつめられていった。
 そんな中「エホバの証人」の信者と出会い、聖書の知識を得たいとの思いから、彼らから学びを受けることになった。しかし私は、次第にその教義に疑問を抱くようになる。そんな私を心配した両親は、松原聖書教会のチラシを渡し、礼拝に行くように勧めた。両親の手前、「三回は行くことにするが、それ以降はやめよう」と打算的な思いでいた当時の私だったが、その三回目の礼拝メッセージに心打たれたのだ。それがこの「放蕩息子」の箇所だった。
 その時の私は、教会から離れた私に対し神様はどれだけお怒りになっておられるだろう、と恐れを抱いていた。しかしそのメッセージから、そうではないんだ、神様はこの父親のように、私がここに戻ってくるのを、心待ちにしておられたんだ、神様は一度掴んだ手を、決して離さないお方なんだと確信した。と同時に、イエス様に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 もう一つ、その頃心打たれた証しがある。クリスチャン新聞に掲載された、救世軍の創始者ウイリアム・ブースの夢の話だ。彼が見たのは、十字架にかけられたイエス様と、そのイエス様の手に釘を打ち直し、ニヤリと笑うブース自身の姿だった。
 自分の罪の重さをハッキリと自覚し、イエス様の十字架の贖いは「みんなのため」ではなく、「自分のため」だと真に理解した。その年のクリスマスに転入会に導かれた私は心から、「この方について行きたい」「この方が『やれ』と言われたことを行い、この方が『行け』と言われた所に行こう」と決心した。イエス様の願われることに精一杯誠実に応えたいという思い、それが私の信仰の原点だ。
 イエス様が罪にまみれたこの世界に降りて来られた、そして私たち一人一人をその中から捜し出して下さった、それがクリスマスだ。私たちに生きる希望を与えて下さった主の恵み、感謝してアドベントの時を味わおう。

「失くした銀貨とは」ルカ15:8~10 [礼拝メッセージ]

12月1日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 人の評価の基準は大きくわけて三つある。
①doing(行為)
②having(属性・持ち物)
③being(存在)。
 世の中は①②の評価ばかりである。何をしても、どんな身分になっても誰かが自分を受け入れてくれるという精神的なセーフティネットがあってこそ、初めて人は誠実になれるし、それによって人に好かれる。たとえ親が評価してくれなくても、私達の創造者は「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)と私達の存在そのものを愛してくださる。 
 お金と物は価値の決まり方が違う。物はどれだけ役に立つかで価値が決まる。1万円の原価は22円だが日本銀行が宣言すれば1万円の価値を持つ。人間の元素は土とほとんど同じで原価300~400円。にもかかわらず人の命は地球よりも重い。創造主が「我々に似るように我々のかたちに人を造ろう」といのちの息を吹き込まれたからである。古くても、しわや破れがあっても1万円は1万円。 本来人間もそれと同じであるとイエス様は言いたいのである。女の人は真の神、銀貨は私達。私達が真の神から離れて生きるなら、どんなすばらしい価値・目的を持っていても、その目的を果たさず一生を終える。お金は自分から戻ってくることできない。人間が探す以外にない。同じように失われた銀貨である私達を取り戻すためにイエス様を送ってくださった。「人の子は失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ19:10)
 お金は使われてこそ生きる。 私達も真の神に戻った時、御手の中で真価を発揮することになる。幕末生まれの極悪人・好地由太郎は牢獄でイエス様に出会い、救われて模範囚になり、見違える人に変身した。私達も隣人の必要に応え、イエス様の恵みを人々に伝えることできる。
 心の問題となると誰もみな罪人、と聖書は言う。神は人を愛して止まない。しかし、罪ある人間をそのまま受け入れることは神の正義が赦さない。だから、神であるイエス様が人間の姿をとり、そのあり方を捨てて、私達の身代わりに十字架につき、罪の借金をすべて支払ってくださった。イエス様は私達、人間のレベルにまで降りてきてくださった。クリスマスとは真の神が人への大きな犠牲を払ってくださったということである。私達もイエス様に倣って、相手に合わせ譲ることのでできる人になりたい。  

『迷い出た一匹の羊』ルカ 15:1~7 [礼拝メッセージ]

11月24日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 今日の箇所は一匹の迷い出た羊が人間に例えられていて、羊飼いは創造主なる神様である。羊はとても弱い動物で一匹で生きていくことができないので、羊飼いに見つけてもらう以外に助かる方法はない。人間も同じように罪と咎のゆえに創造主なる神様から離れ羊のように迷い、永遠の滅びの方へ向かって行ってしまった。しかし私たちの存在を大切に思ってくださる神様は、行方不明になった我が子を捜す親のように、必死で見つけるまで捜し歩いてくださるのである。そして神様は私たちをご自分の元に連れ戻すために、イエス様を遣わしてくださった。私たちはイエス様の十字架によって神様との回復が与えられた。
 羊飼いなる神様は羊が見つかったらとても喜んでくださる。それは私たちをご自身に似せて創り、ご聖霊によって私たちを三位一体の交わりの中に入れるほどに愛してくださっているからである。だから私たちは三つの疑問に答えることができる。①私たちは一体どこから来たのか?(創造主なる神様にいのちが与えられた。)②何のために生きるのか?(三つの愛に生きる。)③死んだらどこに行くのか?(創造主の元に帰る。)
 では私たちはどのようにしてイエス様を知ることができるのか。今日受洗の恵みに与かったOさんは小さい頃教会学校に行っていたことや、初穂である奥さんの救いから次々と家族の救いへと繋がっていった。またイエスが神であるとは空想に過ぎないと思っていたあるアメリカの敏腕記者は、クリスチャンになって人間性が変わっていった奥さんに感動を覚え、キリスト教を徹底的に調べ、聖書を読んだ結果、イエス・キリストはまさしく神の子・救い主であるとの結論に至り、信仰を持ったのである。神様が私たちを見出してくださる方法は千差万別。私たちの教会でのあらゆる行事や子どもたちのスクールなども用いられるように願う。
 私たちの救いを大喜びして下さっている神様に対して、私たちはその感激を忘れてしまっているのではないか。聖書の中でイエス様はエペソの教会に「あなたは初めの愛から離れてしまった。」と非難している。教会の奉仕は大切であるが、それが重荷となり余裕が無くなり心や表情が暗くなるくらいなら、救いを単純に喜んでいるほうが影響力がある。喜びは単なる感情の一つではなく力そのものだから。私たちも原点に返って喜びを日々我が物にしていく生活が求められている。





「太宰治と聖書」使徒17:22〜27 [礼拝メッセージ]

11月17日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 38才で愛人と入水自殺をした太宰治は、聖書を熟読していた作家として知られており、作品中にも、聖書からの引用が91箇所も出てくる。しかしその内訳は、79箇所が新約聖書からであり、さらにはその内の62箇所がマタイの福音書から、そしてその内の26箇所が「山上の垂訓」からの引用となっている。ここから分かることは、太宰治の聖書の読み方には偏りがあり、旧約聖書をあまり読んでいないということだろう。旧約を読まなければ「創造主なる神」が分からず、イエスの十字架の恵みも本当には分からない。
 旧約の創世記には、神がこの世界を創造したとはっきり書いてある。そして、人間は「神のかたち」に造られ(1:27)、「いのちの息」を吹き込まれた(2:7)とある。つまり人間は、三位一体の神との人格的な交わりができる唯一の存在として、命の息すなわち「霊」を持つ存在として造られたということ。ところが神の信頼を裏切り、善悪の知識の実を食べたことによって、神との関係が切れてしまった。そんな人間のために、神の側から救いの道を開いてくださったのがイエスの十字架なのだ。だから私たちは、どんな大きな痛みや精神的負債があったとしても、創造主なる神と出会う時、その愛によって癒されることができる。
 太宰治が、少ないながら愛唱した旧約の聖句に「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。(詩篇121:1)」があるが、この箇所だけで終わっている。これに続く「私の助けは、天地を造られた主から来る。」が抜けており、神との出会いがない。詩篇はユダヤ人がエルサレムへの巡礼の旅をしながら、みんなで応答し合って読んだものであるように、聖書を正しく読むためには、教会に行くことが必要である。そうすれば、独りよがりや誤解から守られる。もし太宰治が教会で聖書を学んでいれば、人生は違うものになっていたのではないだろうか。
 私たちの教会では、牧者が家を開放し、そこに人々が集まる「家の教会」に取り組んでいる。それは、初代教会が「家の教会の集合体」だったから。これが大いに用いられ、聖霊の働きによって、ローマ帝国をも動かす勢いで、キリスト教が広がっていったのだ。教会の敷居は高いと感じる人も、家庭での食事の交わりになら参加しやすいだろう。
 パウロがピレモンへの手紙1:5で「主イエスに対してあなたが抱いている信仰と、すべての聖徒に対するあなたの愛とについて」感謝していると書いている。神に対する「信仰」と、隣人に対する「愛」はどちらも大切であり、家の教会はまさに、この2つの実践になる。初代教会の原点に立ち返り、主にあって、未信者をVIPとして家の教会に迎え入れていきたい。

『刈り取りの原則』ガラテヤ6:7~9 [礼拝メッセージ]

11月10日礼拝メッセージ(野口牧師先生)より
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 イエスさまは、『子どもたちをわたしのもとに連れてきなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者達のものです。』と言われ、子どもの素直な信仰、思いを喜んでくださる。
 今日、成長感謝祝福式が行われた。大切な子ども達をどのように育んでゆけばよいのだろう。
 「息子がJF幼児園年長の運動会の時に体験した跳び箱で達成感を味わい、小学4年生の現在12段の跳び箱を飛んでいる」と一人のお母さんが証ししてくれた。子どもは小さなきっかけをつかむとそれが自信となって伸びてゆく。
今、幼児園では『聖書に学ぶ子育てコーチング』という本から参加希望のお母さん方と共に色々なことを教えられている。その中に刈り取りの原則がある。自分の蒔く種は必ず刈り取らなければならないという人生の大切な原則だ。人は失敗の苦い経験から学ぶことが多く、何かを失って初めて自分の行動を変えてゆく。
 この法則のポイントはしたいようにする自由を与え、間違った選択をしたときの体験を通して同じ間違いをしたくないと思うようにさせることにある。子どもが間違った選択をしたとしても感情的にならず冷静に子どもの痛みや辛さに共感してあげることが大切だ。自由には責任が伴うこと、そしてその責任は自分がとらなければいけない事を教えることで子どもは成熟した大人に育ってゆく。
 良い種を蒔いたとき良い結果を刈り取ることができるように応援し、約束を守れるようなったとき守れて当たり前と思うのではなく、子どもを抱きしめて心から褒めてやる事がとても大切だと専門家は言う。約束を守る事はとても素晴らしいと教えるチャンスであり、子どもにとって一番大好きなお母さんに褒められたという体験を通して、その他のルールを守れるように育ってゆく。褒めることで子どもにプラスのエネルギーを与え、良い種を蒔けば良い結果が与えられる ということを家庭で体験させ教えよう。
人生の鉄則である刈り取りの原則を用いてメリハリの利いた子育てを実践してゆこう。

『思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。』 ガラテヤ6:7